判例データベース

H幼稚園保母自殺業務上認定事件【うつ病・自殺】

事件の分類
うつ病・自殺
事件名
H幼稚園保母自殺業務上認定事件【うつ病・自殺】
事件番号
東京地裁 - 平成17年(行ウ)第268号
当事者
原告 個人1名
被告 国
業種
公務
判決・決定
判決
判決決定年月日
2006年09月04日
判決決定区分
認容(確定)
事件の概要
原告はMの父親であり、Mは平成5年1月にA社に採用され、同社が経営する幼稚園(F園)で勤務を始めた。当時同園の児童数は19名で、保母の数はMを含めて2名であり、児童福祉施設最低基準に定める保母数が確保されていなかった。

平成5年2月7日、MはA社の指示で4月からT園へ異動し、新しい保育の責任者になることを指示され、それ以降通常の業務に加え、それまで経験のないコンピューターを利用した保育のための学習・打合せ、次年度の年間指導計画の作成等も重なった。

同年3月30日頃、Mは精神障害を発生し、同月31日病院で受診したが、医師の問診に対して発語も開眼も困難な状態であり、精神的ストレスが起こす心身症的疾患と診断されたほか、肝機能障害も疑われたため、入院検査を受けることになり、同日付けでA社を退職した。Mは翌日には精神的不安が消失したことから、退院して自宅療養をすることになり、同年4月11日教会において洗礼を受け、新しい保育園探しを開始するなどした。
 同月15日、Mは原告に対し、信仰に導いてくれたお礼の手紙を書いたほか、同月27日に幼稚園に離職票を受け取りに行った際、同僚保母宛ての迷惑をかけたことに対するお詫びの手紙を託した。そして、同月29日、Mは自宅において、家族に宛てた遺書を残し縊首により自殺した。同年12月22日、原告は加古川労働基準監督署長に対し、Mの死亡に関し労災保険法に基づく葬祭料及び遺族補償年金の支給を請求したが、同署長は平成8年8月7日付けで不支給の処分をした。原告は本件処分を不服として、審査請求更には再審査請求を行ったが、いずれも棄却されたため、署長の行った不支給処分の取消しを求めて提訴した。
主文
1 加古川労働基準監督署長が平成8年8月7日原告に対してした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償年金及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
判決要旨
1 業務起因性の判断基準

 労災保険法に基づく保険給付は、労働者の業務上の死亡等について行われるところ、労働者の死亡等を業務上のものと認めるためには、業務と死亡との間に相当因果関係が認められることが必要である。また、労災保険制度が、労働基準法上の危険責任の法理に基づく使用者の災害補償責任を担保する制度であることからすれば、上記の相当因果関係を認めるためには、当該死亡等の結果が、当該業務に内在する危険が現実化したものであると評価し得ることが必要である。そして、業務と精神障害の発症との間の相当因果関係が認められるためには、ストレス(業務による心理的負荷と業務以外の心理的負荷)と個体側の反応性、脆弱性を総合考慮し、業務による心理的負荷が、社会通念上、精神障害を発症させる程度に過重であるといえる場合に、業務に内在ないし随伴する危険が現実化したものとして、当該精神障害の業務起因性を肯定するのが相当である。

 ところで、労働者の自殺が業務上の死亡と認められるか否かが問題となる場合、通常は当該労働者が死の結果を認識し認容したものと考えられるが、少なくとも、当該労働者が業務に起因する精神障害を発症した結果、正常な認識、行為選択能力が著しく阻害され、あるいは自殺を思い留まる精神的抑制力が著しく阻害されている状態で自殺に至った場合には、当該労働者が死亡という結果を認識し認容していたとしても、当該結果を意図したとまではいうことができず、労災保険法12条の2の2第1項にいう「故意」による死亡には該当しないというべきである。更に、ICD-10のF0ないしF4に分類される精神障害の下で遂行される自殺行為については、精神障害により正常な認識、行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていたと推定する取扱いが、医学的見地から妥当であると判断されているところであるから、業務により発症したこれら精神障害に罹患していると認められる者が自殺を図った場合には、原則として、当該自殺による死亡につき業務起因性を認めるのが相当である。その一方で、自殺時点において正常な認識、行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていなかったと認められる場合や、業務以外のストレス要因の内容等から、自殺が業務に起因する精神障害の症状の蓋然的な結果とは認め難い場合などといった特段の事情が認められる場合には、上記推定を覆し、業務起因性を否定するのが相当である。

2 Mの精神障害発症の業務起因性について

 Mが、平成5年3月30日頃、ICD-10のF4に分類される精神障害を発症したこと及び当該精神障害の発症がMの業務に起因するものであることは、当事者間の争いがない。ところで、原告はMの自殺は当該精神障害が原因であると主張し、他方被告は当該精神障害は寛解しており、Mの自殺との間に業務起因性はないと反論し、その点が本件の最大の争点である。

 Mは、平成5年1月から保母の業務を開始したもので、勤務先の二俣園は児童福祉施設最低基準を満たしておらず、その業務内容は、(1)給食の材料の買出しから調理まで行う一方、他の園の園児も含め、安全かつ正確な送迎を行わなければならなかったこと、(2)保母としての本来業務は片時もじっとしていない園児たちの安全を確保しつつ行わなければならなかったこと、(3)二俣園の19名の園児だけでなく、バスの送迎を待つ間他園の園児の保育も行わなければならなかったことなど、過重な業務内容であった。また、Mは1日10時間近い労働を余儀なくされ、休憩も十分に取れない状態であり、採用後僅か3ヶ月にもかかわらず、新任保母5人のまとめ役を命じられ精神的負荷を負ったほか、経験のないコンピューターを使用しての保育のため、業務終了後研修を受けたり、操作マニュアルに目を通すなどの準備を行った。更に異動予定の高畑園の園児の送迎バス時刻表の作成を命じられ、これは他園も含めた多数の園児の顔と名前が一致しなければ不可能な作業のため、Mにとって極めて過酷な作業であった。

 以上の検討結果によれば、Mは保母としての経験が浅かったのに、二俣園で課せられた業務内容は過酷なものであったというべきである。かかる過酷な業務に加え、コンピューターによる保育の指示及び園児送迎バス時刻表作成業務が課せられたのであり、かかる業務内容はMに対し精神的にも肉体的にも重い負担をかけたことは明らかであり、Mならずとも、通常の人ならば誰でも精神障害を発症させる業務内容であったというべきである。

3 Mの本件自殺当時の精神障害罹患の有無

 うつ状態の特徴的な症状は、抑うつ気分、意欲・行動の制止、不安、罪責感、睡眠障害であるところ、Mには退院後本件自殺に至るまでの間にうつ状態の特徴的な症状がみられた。またうつ病の場合、身体面での疲労感が軽減した後でも精神面での不安及び抑うつ気分は容易に回復し難く、かなりの期間遷延するのが一般的であるところ、Mが精神障害に罹患してから自殺までの間は1ヶ月足らずであったこと、Mは入院中を含め自殺までの間精神科の治療を一切受けていないことも考慮すると、Mは退院後、自殺に至るまでの間、3月30日頃罹患した精神障害であるうつ状態に特徴的な症状がたびたび出ていたと認めるのが相当であり、自殺するまでの間に、Mの症状が寛解したと認めるに足りる的確な証拠は存在しないというべきである。

 Mが退職するに至った経緯を見れば、その原因はすべてA社側にあるといえる一方で、Mに関しては、使用者側においてさえ、職務につき高い評価をしており、特に目立った失敗などをした形跡も窺われず、退職につき責められるべき点は認められない。以上によれば、Mは平成5年3月30日頃、業務に起因して精神障害に罹患し、その状態のまま、本件自殺に至ったものと認めるのが相当である。

4 本件自殺と精神障害に関する被告の主張について

 被告は、Mは業務に起因して精神障害を発症したが、教会で洗礼を受けた平成5年4月11日頃、精神障害は寛解しており、本件自殺は精神障害によるものではないと主張する。確かに、Mが退院後、同月半ば頃までの間にかけて精神状態が改善する傾向にあったことは十分推認することができるが、とりわけうつ状態には気分変動があり、これを繰り返しながら回復していくものであることを考慮すると、Mが一時的に行動性を取り戻した時期があったとしても、これをもってMの精神障害が寛解していたものとするのは早計に過ぎるというべきである。そもそもMは、退院後本件自殺に至るまでの間、たびたび抑うつ気分、意欲・行動の制止、不安、罪責感、睡眠障害が見られたのであり、これらの症状に照らし、Mの精神障害が同月11日に寛解していたと認めることは困難である。百歩引いて、仮に同日の時点でMの精神障害が寛解していたと仮定しても、本件自殺当時、うつ状態が再び生じていたと認めることは何ら矛盾しない。

5 結論
 Mは、本件業務により、ICD-10のF4「適応傷害」に分類される精神障害を発症し、これに罹患した状態で本件自殺に及んだものと認められ、他方、本件自殺時点において、Mの正常な認識、行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていなかったと認めるべき事情は認められないのであるから、Mの死亡については、業務に起因するものと認めるのが相当である。以上によれば、Mの本件自殺による死亡が業務に起因するものではないことを前提にして行われた本件処分は違法であり、その取消しを求める原告の請求は理由があるから、これを認容することとする。
適用法規・条文
労働者災害補償保険法12条の2の2、16条、17条
収録文献(出典)
労働判例924号32頁
その他特記事項
本件は民事訴訟としても争われた。

第1審 神戸地裁1997年5月26日判決 労判744号22頁

第2審 大阪高裁1998年8月27日判決 労判744号17頁

上告審 最高裁 2000年6月27日決定 労判795号13頁