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さいたま労基署長(N社)自殺事件【うつ病・自殺】

事件の分類
うつ病・自殺
事件名
さいたま労基署長(N社)自殺事件【うつ病・自殺】
事件番号
さいたま地裁 - 平成15年(行ウ)第37号
当事者
原告 個人1名
被告 さいたま労働基準監督署長
業種
公務
判決・決定
判決
判決決定年月日
2006年11月29日
判決決定区分
認容(控訴)
事件の概要
 N社は、医薬品事業及び化成品事業について、研究・生産から販売までを一貫して行っている会社であり、K(昭和20年生)は昭和43年にN社に入社した者である。KはN社大宮工場に配属され、平成5年3月、同工場管理部品質管理課に異動となり、平成8年10月、品質管理責任者に選任された後、平成9年4月に同課品質管理係長となった。

 Kは、包材検査、製品検査、参考品管理、原料企画書・製品企画書の作成、原料・製品・工程の管理及び品質管理責任者としての業務に従事していたところ、日本薬局方13次改正に伴う原料規格書・製品規格書の作成については完成期限について明示的な指示はなかったものの、数ヶ月以内に完成させることを暗黙に期待されており、Kはこれを負担に感じていた。また、トラブル発生時の対応においては、Kは適切な判断・処理ができず、品質管理課の同僚に処理を頼まざるを得ない事態に陥ったことが何回かあり、その際、現場に駆けつけた下僚から強い口調で批判されたこともあった。また、Kの1ヶ月当たりの平均時間外労働時間は、申告によれば概ね10時間から20時間であり、他の従業員よりも少ない状況であった。

 なお、Kは、長年の趣味として株取引を行っていたが、平成8年12月から平成9年3月までの間に800万円もの損失を出すなどしており、このような状況の中で、Kは、平成9年11月26日に自宅において包丁で手首を切るなどして自殺した。
 Kの妻である原告は、KがN社の業務により心理的負担や過労が過度に蓄積してうつ病に罹患し、その結果自殺に至ったのであるから、Kの死亡は業務上のものであるとして、被告に対し労災保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の支給を請求した。これに対し被告が、Kの自殺を業務外として不支給決定処分をしたことから、原告は本件処分の取消しを求めて提訴した。
主文
1 被告が原告に対して平成14年10月2日付けでした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料を不支給とする旨の処分を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
判決要旨
1 労災保険法における業務起因性の判断

 労災保険給付の対象となる業務上の疾病については、労基法75条2項、同法施行規則35条、同規則別表第1の2に列挙されているが、うつ病が労災保険給付の対象となるためには、同表第9号の「その他業務に起因することが明らかな疾病」に該当することが必要である。ところで、業務と傷病等との間に業務起因性があるというためには、労災補償制度の趣旨に照らすと、単に当該業務と傷病との間に条件関係が存在するのみならず、社会通念上、業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化として死傷病等が発生したと法的に評価されること、すなわち相当因果関係があることが必要であると解される。そして、精神疾患の発病や増悪は様々な要因が複雑に影響し合っていると考えられているが、当該業務と精神疾患の発病や増悪との間に相当因果関係が肯定されるためには、単に業務が他の原因と協働して精神疾患を発症若しくは増悪させた原因であると認められるだけでは足りず、当該業務自体が、社会通念上、当該精神疾患を発病若しくは増悪させる一定程度以上の危険性を内在又は随伴していることが必要であると解される。

 うつ病の発病メカニズムについては未だ十分解明されていないけれども、現在の医学的知見によれば、環境由来のストレスと個体側の反応性、脆弱性との関係で精神破綻が生じるかどうかが決まり、ストレスが非常に強ければ個体側の脆弱性が小さくても精神障害が起こるし、逆に脆弱性が大きければストレスが小さくても破綻が生じるとする「ストレス(脆弱性)」理論が合理的であると認められる。そこで、業務とうつ病の発病との間の相当因果関係の存否を判断するに当たっては、発病前の業務内容及び生活状況並びにこれらが労働者に与える心理的負荷の有無や程度、更には当該労働者のうつ病に親和的な性格等の個体側の要因等を具体的かつ総合的に検討し、社会通念に照らし、当該業務の当該精神疾患を発病ないし増悪させる一定程度の危険性の有無を判断する必要がある。なお、その発病自体について業務起因性が認められない場合であっても、発病後に行われた業務が労働者に心理的負荷を与えるもので一定の危険性があり、上述のような他の要因をも総合的に考慮して、社会通念上、当該業務によって増悪したと認められる場合には、やはり業務起因性を認めることが相当と解される。

 ところで、「社会通念上、当該精神疾患を発症若しくは増悪させる一定程度以上の危険性」の判断に当たっては、通常の勤務に就くことが期待されている平均的労働者を基準とすることが相当であるが、上記の通常の勤務に就くことが期待されている者とは、完全な健常者のみならず、一定の素因や脆弱性を抱えながらも勤務の軽減を要せず通常の勤務に就き得る者、いわば平均的労働者の最下限の者を含むと解するのが相当である。そこで、当該業務が精神疾患を発症ないし増悪させる危険性ないし負荷を有するかどうかの判断に当たっては、当該労働者の置かれた立場や状況、性格、能力等を十分に考慮する必要がある。なお、訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的な証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。

 労災保険法12条の2の2第1項は、労働者の故意による事故を労災給付の対象から除外しているが、その趣旨は、業務と関わりのない労働者の自由な意思によって発生した事故は業務との因果関係が中断される結果、業務起因性がないことを確認的に示したものと解するのが相当である。それ故、自殺行為のように外形的に労働者の意思的行為と見られる行為によって事故が発生した場合であっても、その行為が業務に起因して発生したうつ病の症状として発現したと認められる場合には、労働者の自由な意思に基づく行為とはいえないから、同規定にいう故意には該当しないものと解される。そして、判断指針においては、業務による心理的負荷によりICD-10分類のF0からF4に分類された自殺念慮が出現する蓋然性が高い精神障害が発病したと認められる者が自殺を図った場合には、当該精神障害によって正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺行為を思い止まる精神的な抑止力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたものと推定され、原則として業務起因性が認められるとされている。

2 本件における業務起因性の判断

(1)本件うつ病と業務との条件関係

 平成9年8月ないし11月の間にKがうつ病に罹患していたとする医師の証言やKの言動等を勘案すると、N社におけるKの業務が本件うつ病の発症ないし増悪の要因の一つになっていたこと(業務とうつ病発症ないし増悪との間に条件関係が存在していたこと)自体は認められる。

(2)Kの担当業務と置かれた状況

 Kの周囲の者の話を総合すれば、平成8年10月から平成9年9月頃にかけて、Kの品質管理責任者、品質管理係長の就任に伴い、外見的には仕事の内容や量に大きな変動があったわけではないが、周囲は課長に次ぐ筆頭係長として、また品質管理者として、それなりの能力と責任を期待していたところ、Kは日常の品質管理業務において、現場のトラブルの際に適切な対応ができず、周囲や部下から文句が出され、馬鹿にされることが一度ならずあり、それら一つ一つの出来事自体は強度なものでないとしても、Kの自責、自信喪失に繋がり、徐々にではあるが継続的に心理的負荷を募らせる状況に置かれていったことが窺える。

(3)時間外労働

 Kの時間外労働(勉強会及び自宅への持ち帰り作業を除く)については、死亡前6ヶ月の時期についても、1ヶ月平均10時間から20時間ないしこれを多少超える程度であり、所定休日が土曜日、日曜日及び国民の祝日であることを併せ考慮すると、Kは一定程度の時間外労働を恒常的に行っていたが、その時間は長時間と評価できるほどのものではなく、かつ、Kには十分な休日が保障されていたから、Kの労働時間が、社会通念上、特に強度の心理的負荷を与える程度に至っていたとは認められない。

(4)平成9年9月中旬以降のKの業務

 Qは、Kのトラブル処理に問題があると感じ、好意から平成9年9月17日から同年11月7日までの間、勉強会を行ったことが認められるが、頻度は2日に1度程度、時間は長くても1、2時間程度のものが多かったと推認され、しかも任意の勉強会である以上、仕事の場面ほどの精神の緊張までは要しなかったことは明らかで、仮にこれを時間外労働に加えたとしても、客観的にみて、これがKの心身に大きな負荷を与える内容であったとは認め難い。

 13次薬局方改正に伴う原料規格書の改訂作業は、薬剤師の資格を持ち、実務に精通している課長らの目から見れば、大した業務量とは認められないかも知れないが、専門知識を持たず、ワープロ技術の習熟していないKにとってみれば、それなりの労力と時間を要するものであったと認められる。そして、平成9年9月中旬頃のKの言動からすると、抑うつ気分、集中力・判断力の低下といったうつ病の症状が現れ始めていると認められ、このような中で、規格書改訂作業が思うように進まず、自ら設定した期限である11月26日が目前に迫っても、終了の見込みがつかなかったことで、不安感、焦燥感更に自責の念が強くなったことは、Kの心理状態を考えれば十分に理解可能であるから、本業務は、この頃Kに対し強い心理的負荷を与えたものと認められる。

(5)業務以外の心理的要因

 Kは、趣味で行っていた株取引において、平成8年12月から平成9年3月までの間に、約800万円の損失を被ったことで、相当の心理的負荷を受けたことが推認される。しかしながら、Kは実父死亡に伴う相続により1000万円を取得し、それを株取引の元手にしたことが考えられ、株の取引によって損もすれば得もすることを何度も経験していると推認されることに加え、Kの年収も相当程度(790万円)あり、原告も同等以上の収入を得ていたこと、長男も就職し、長女も結婚予定であったこと、Kの株取引の失敗によって家族の生活に変化があったとの証拠はなく、株の損失とKのうつ病発症・自殺までには約半年以上の期間が経過していること等を勘案すると、上記株取引の失敗が、Kに相当の心理的負荷を与えたとはいえ、本件うつ病発症ないし増悪の決定的な原因となったものとまでは考え難い。

 被告は、原告の冷淡な対応がKに対し業務外の心理的負荷を与えた旨主張するが、原告とKは結婚25年を経た夫婦であり、それなりの喧嘩やトラブルがあったかも知れないが、原告のKへの対応が、それまでと特段変化したとの証拠はなく、原告がKの異変やうつ病の発症に気付かず医者に連れて行かなかった点については、従来Kが精神疾患を患ったことがなく、身近にも精神疾患を患った者がいないこと、原告には自分の仕事についての心配もあり、精神障害について特別詳しい知識を有していた訳ではないこと等を考慮すると、やむを得ない面があり、原告の対応がKに対する相当の業務外の心理的負荷要因となったとまでは認め難い。

(6)Kの個体側要因

 Kは、平成8年10月31日、陳旧性脳梗塞の診断を受けたが、その症状は軽微であり、その原因となった血管障害についても年齢と比して不相当な程度にまで進行していたと即断することはできない。加えて、Kが高血圧であったとまでは認められず、また脳管障害を悪化させる程度の喫煙をしていたとの証拠もない。そうすると、かかる障害がKのうつ病の発症ないし増悪の要因となったと認めることは相当でない。

 Kが平成9年9月以降、アルコールに依存していたと認めるに足りる証拠はなく、喫煙本数の増加の程度も明らかでなく、アルコールや喫煙の増加がKのうつ病の発症ないし増悪の一因となったと認めるに足りる証拠はない。Kは、優柔不断、見栄っ張りなところがあり、他人に対して気を遣い、他人との衝突を避け、部下から批判されても平静を装うなど、ストレスをため込みやすい性格であったが、それまでの生活史を通じて、Kの社会的適応状況に特別の問題があったとの事実はなく、Kのストレス反応性が、通常人の範囲を逸脱して脆弱であることを窺わせる事情は見出すことはできない。

(7)総合評価

 Kは、平成8年10月1日に品質管理者に、平成9年4月1日に品質係長に就任し、これらの昇任の前後を通じて担当業務に大きな変動はなく、表向きはそれなりに仕事をこなしていたが、現場でのトラブル処理に1人では適切な判断ができないことが時々あり、部下等にかなり強い口調で批判されることが一度ならずあって、こうしたことはKのプライドを傷つけ、Kの自責、自信喪失につながり、継続的にKに心理的負荷を与えていたことが窺える。そして、Kは株取引で合計800万円の損失を被り、そのことはKに相当程度の心理的負荷を与えたと推認され、仕事の重圧にKのうつ病親和的性格も加わって、平成9年8、9月頃からKには抑うつ気分、判断力低下、集中力低下等のうつ病的症状が現れ始めていたところ、Kは課長から命じられた規格書改訂等の仕事を何とか同年11月26日に予定された自己点検の日までに仕上げなければならないと思い、自宅でワープロ作業をしていたが思うように進まず、徐々に不安感、焦燥感を募らせ、期限の日が迫ってきても作業を終了させる見込みが立たなかったことから、強い心理的負荷を感じ、この結果うつ病を急激に悪化させ、うつ病による希死念慮から、自己点検の当日、発作的に自殺に至ったものと認められる。そして、株取引による失敗も、これまでの経緯やKの年収等からKのうつ病の発症・増悪に決定的なものとまでいえず、このほかKのうつ病に関し原因となるべき業務以外の出来事による心理的負荷があったと認めるべき事情は窺われず、Kの有していたうつ病親和的な性格傾向も未だ平均的労働者の域を超えるものとは認められず、Kもその家族にも精神障害と関連する疾患についての既往歴はない。

 そうすると、Kのうつ病の発症及び増悪は業務によるストレスが有力な一因となっていると認められるところ、業務による心理的負荷は、Kの置かれた具体的立場や状況に照らすと、Kに対し、社会通念上、うつ病の発症や増悪の点で一定程度以上の危険性を有するものであったというべきであり、Kのうつ病の発症及び増悪は、上記危険性が現実化したものというべきであるから、業務とKのうつ病の発症及び増悪との間には相当因果関係を認めるのが相当である。

4 被告の主張

 被告は、Kの業務による出来事に関する心理的負荷については判断指針により判定するのが相当であるとし、これによれば、業務による負荷はいずれも「強度1」であるのに対し、株取引の失敗による損失は「強度3」、原告の対応ぶりは「強度2」に相当し、業務以外の心理的負荷の要素が強くある旨主張する。しかしながら、判断指針は行政内部の準則という性質を有するに止まり、それに該当しない限り業務起因性が認められないという意味での法的効力はない。すなわち、判断指針は専門家の報告書に基づき医学的知見に沿って作成されたもので、一定の合理性を認めることができるが、精神障害の業務起因性の唯一の判断基準とまではいえず、精神障害の業務起因性を判断するための資料の1つに過ぎないというべきである。
 以上の次第で、本件うつ病の発症とそれに基づく本件自殺には業務起因性が認められるので、これを否定した本件不支給決定は違法といわざるを得ない。
適用法規・条文
07:労働基準法75条、労災保険法
収録文献(出典)
労働判例936号69頁
その他特記事項
本件は控訴された。