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さいたま労基署長(N社)自殺控訴事件【うつ病・自殺】
- 事件の分類
- うつ病・自殺
- 事件名
- さいたま労基署長(N社)自殺控訴事件【うつ病・自殺】
- 事件番号
- 東京高裁 − 平成19年(行コ)第13号
- 当事者
- 控訴人 さいたま労働基準監督署長
被控訴人 個人1名 - 業種
- 公務
- 判決・決定
- 判決
- 判決決定年月日
- 2007年10月11日
- 判決決定区分
- 控訴認容(原判決取消)(上告)
- 事件の概要
- K(昭和20年生)は、昭和43年に、医薬品等の研究・生産・販売を業とするN社に入社し、平成8年10月に品質管理責任者、平成9年4月には品質管理係長に任命された。
当時のKの業務は、品質管理責任者としての業務のほか、13次薬局方改正に伴う原料規格書・製品規格書の改訂作業があり、そのためKは自宅でワープロ作業を行っていた。また、原料・製品・工程の各管理はKの職務であったが、Kはそこで発生するトラブルに十分に対応できず、下僚から強い調子で批判されることもあった。更に、Kは趣味で株取引を行っていたところ、平成8年12月から平成9年3月までの間において、約800万円の損失を被ったこともあり、こうした状況の中で、Kは自ら設定した規格書の自己点検の日である平成9年11月26日、自宅において包丁で手首を切って自殺した。
Kの妻である被控訴人(第1審原告)は、Kの自殺は過重な業務によりうつ病に罹患し、その結果自殺に至ったとして、控訴人(第1審被告)に対し、労災保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の給付を請求したが、控訴人はこれを不支給とする処分をしたため、被控訴人はこの処分の取消しを求めて提訴した。
第1審では、Kのうつ病の発症及び増悪は業務によるストレスが有力な一因となっており、業務とKのうつ病の発症及び増悪との間には相当因果関係が認められるとして、控訴人が行った不支給処分を取り消したことから、控訴人はこれを不服として控訴した。 - 主文
- 1 原判決を取り消す。
2 被控訴人の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は第1、2審とも被控訴人の負担とする。 - 判決要旨
- 当裁判所は、原審と異なり、本件うつ病の発症とそれによる自殺には業務起因性が認められず、本件不支給決定は相当であると判断する。
労災保険制度の趣旨に照らし、「社会通念上、当該疾病の発症若しくは増悪させる一定程度以上の危険性」の判断に当たっては、通常の勤務に就くことが期待されている平均的労働者を基準とすることが相当である。したがって、当該業務が危険か否かの判断は、当該労働者を基準とすべきではなく、あくまでも平均的労働者、すなわち何らかの素因(個体側の脆弱性)を有しながらも、当該労働者と同程度の職種・地位・経験を有し、特段の勤務軽減までを必要とせず、通常の業務を支障なく遂行することができる程度の健康状態にある者を基準とすべきである。
平成8年10月から平成9年9月頃にかけて、Kの品質管理責任者、品質管理係長の就任に伴い、外見的には仕事の内容や量に大きな変動があったわけではないが、周囲は課長に次ぐ筆頭係長として、また品質管理責任者として、それなりの能力と責任を期待していたところ、Kは日常の品質管理業務において、現場のトラブルの際に適切な対応ができず、周囲や部下から文句が出され、馬鹿にされることが一度ならずあった。このトラブル対応についての不適応は、Kの業務遂行能力の低下によるものと解され、これはKの脆弱性・反応性の強さを示す事情ということができる。また、現場のトラブル処理への対応は、品質管理係の日常業務の一環であり、工場管理のトラブル処理は平均して3,4日に1回程度に止まるから、一般的に強度の心理的負荷を伴う業務であるとはいえない。
Kは、規格書改訂業務を担当しており、平成8年4月1日施行の13次薬局方改正に伴う改訂は、法令上は平成9年9月30日が期限であったが、特に指示がないため、同年夏頃までは作業をほとんど進捗させていなかったと推認されるが、数ヶ月以内に完成させることが暗黙のうちに予定されていたことなどから、Kは同年9月頃から11月後半にかけて自宅でワープロ作業をしていたことが認められる。ところで、13次薬局方改正に伴う原料規格書の改訂は、それなりに時間を要するものであったことが窺えるが、課長は集中すれば1,2日でできると述べていること、同僚社員も今回の作業は既に決まっている薬局方と自社の規格書の相違する箇所を確認し、フロッピーに保存してあった内容を加除・訂正するだけの単純作業であり、専門知識は不要であると陳述している。
平成9年9月中旬頃のKの言動からすると、抑うつ気分、集中力・判断力の低下といったうつ病の症状が現れ始めていると認められ、このような中で規格書改訂作業が思うように進まず、自らが設定した期限である自己点検の日である11月26日が目前に迫っても、同作業が終了する見込みがつかなかったことで、不安感、焦燥感、更に自責の念が強くなったのではないかと推測されるが、これはKの業務遂行能力の低下によるものであり、Kの脆弱性・反応性の強さを示す事情ということができる。上記のとおり、この規格書改訂作業は、専門知識を必要とされず、それほど長時間を要するものでもなく、Kの従前の能力を前提にすれば、特に難しい作業であったということはできないのであるから、一般的に強度の心理的負荷を伴う業務であるとはいえない。
Kは、平成8年1月から平成9年3月までの間に、株取引において約906万円の損失を受け、特に平成8年12月19日に約159万円、平成9年2月10日に約192万円、同年3月12日に約449万円の損失を受けたが、Kの当時の年収は790万円であったから、その損失額は極めて大きいということができる。また、Kの死亡当時の預金残高は約24万円、債務が約369万円であり、このKの収入及び資産状況からすると、僅か3ヶ月間で約800万円もの損失を被ったことが、Kに経済的に甚大な被害を与えたということができる。Kは、平成6年6月以降で、1回当たり100万円以上の損失を被った取引は上記3回のみであり、平成9年3月下旬に睡眠障害が生じ、同年4,5月には頭重感が生じており、これらはうつ病の前駆症状ということができる。
Kが上記の株取引の失敗について家族や同僚に打ち明けていないことを考慮すると、被控訴人等家族が相当額の収入を得ていることをもって、Kの多額の損失を受けたことによる心理的負担を軽減する要素となるということはできない。そして、平成9年3月12日に約449万円という多額の損失を受けた直後の同月下旬に睡眠障害が生じており、約5ヶ月経過した同年8月頃にはKのうつ病が発症していると見られることなどを考慮すると、上記株取引の失敗が、Kに極めて多くの心理的負荷を与えたものと考えられる。
以上の事実によれば、Kは検査及び品質管理の仕事をこなしてきたが、現場でのトラブル処理に一人では適切な判断ができないことが1度ならずあり、このトラブル対応についての不適応はKの業務遂行能力の低下がその原因であって、Kの脆弱性・反応性の強さを示す事情ということができるのであるから、Kの業務が一般的に強度の心理的負荷を伴うものであったということはできない。そして、Kは平成8年12月から平成9年3月にかけて株取引で大きな損失を被ったのであり、このことがKに極めて多くの心理的負荷を与え、本件うつ病発症の決定的な原因となったものと見るべきである。そしてKが取り組んでいた規格書の改訂作業は、専門知識は必要とはされず、それほど長時間を要するものでもなく、Kの従前の能力を前提にすれば、特に難しい作業であったということはできず、一般的に強度の心理的負荷を伴う業務であるといえないから、この作業によって、うつ病を急激に悪化させ、自殺に至ったという相当因果関係を認めることはできない。
被控訴人は、Kが品質管理責任者に就任した後、特に死亡前3ヶ月間、その業務は多忙であり、長時間労働により肉体的・精神的負担が過重にかかっていたと主張する。しかしながら、品質管理課においては時間通りに残業を申告できる状況にあり、Kのタイムカード等によれば、Kの1ヶ月当たりの平均合計時間外労働時間は、平成8年4月11日から同年10月10までについては約19.2時間、同月11日から平成9年4月10日までについては約15.8時間、同月11日から同年10月10日までについては約11.6時間、同月11日から同年11月26日までの1ヶ月半については13.3時間であったこと、Kは休日出勤をすることはあっても、その分の代休は取得していたのであり、Kは一定程度の時間外労働を恒常的に行ってはいたが、その時間は長時間と評価できるほどのものではなく、かつ、Kの労働時間が、社会通念上、特に強度の心理的負荷を与える程度に至っていたとは認められない。
以上のとおり、本件うつ病の発症とこれに基づく本件自殺には業務起因性が認められず、本件不支給決定は適法であって、被控訴人の請求は理由がないことからこれを棄却すべきであり、これと異なる原判決を取り消す。 - 適用法規・条文
- 収録文献(出典)
- 労働判例959号114頁
- その他特記事項
- 本件は上告された。
顛末情報
事件番号 | 判決決定区分 | 判決年月日 |
---|---|---|
さいたま地裁 - 平成15年(行ウ)第37号 | 認容(控訴) | 2006年11月29日 |
東京高裁 − 平成19年(行コ)第13号 | 控訴認容(原判決取消)(上告) | 2007年10月11日 |