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福岡東労基署長(K農協)自殺事件【うつ病・自殺】
- 事件の分類
- うつ病・自殺
- 事件名
- 福岡東労基署長(K農協)自殺事件【うつ病・自殺】
- 事件番号
- 福岡地裁 − 平成18年(行ウ)第37号
- 当事者
- 原告 個人1名
被告 国 - 業種
- 公務
- 判決・決定
- 判決
- 判決決定年月日
- 2008年03月26日
- 判決決定区分
- 認容(控訴)
- 事件の概要
- T(昭和28年生)は、平成元年4月、K農協に正規職員として採用され、農機車両係や給油所係に配属された後、給油以外の業務に移ることを希望し、父親の口利きもあって、平成11年4月、S支所金融共済課貯金専任渉外係に配置換えされた。
本件配置転換後のTの業務は、主に集金業務及び推進業務で、その具体的内容は、各顧客との人間関係を構築しながら、そのライフプランに合わせて金融商品の購入や更新を勧誘するものであり、金融商品についての高度な知識や、営業技術が必要な業務であった。
K農協では、毎年各職員ごとの年間獲得目標が設定され、支所全体で目標を達成できない場合、ペナルティとしてその支所の全職員が翌年度の年間目標に未達成額を上乗せするという制度になっていた。Tは、貯金専任渉外係は初めてであるものの、新人の倍以上の3億3500万円の年間目標が定められたが、その達成率は1割以下と著しく低く、係の中では常に最下位であった。こうした中、Tは同年5月中旬頃、うつ病エピソードを発症し、同年7月24日、山中において縊死により自殺した。
Tの妻である原告は、Tの本件精神障害は業務に起因するものであり、本件自殺と業務との間に相当因果関係があるとして、被告労働基準監督署長に対し、労災保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の支給を請求したところ、平成15年1月20日、同署長が不支給処分としたことから、同処分の取消しを求めて本訴を提起した。 - 主文
- 1 福岡東労働基準監督署長が、原告に対して、平成15年1月20日付けでした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償年金及び葬祭料を支給しない旨の各処分をいずれも取り消す。
2 訴訟費用は、被告の負担とする。 - 判決要旨
- 1 業務起因性の判断基準
労災保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の保険給付は、労基法79条及び80条所定の「労働者が業務上死亡した場合」に行われるものであるところ(労災保険法12条の8第2項)、精神障害による自殺がこれに当たるというためには、精神障害が労基法施行規則別表第一の二第9号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当することを要し、精神障害につき業務起因性が認められなければならない。そして、労働者災害補償制度が、業務に内在ないし通常随伴する危険が現実化して労働者に障害等を負わせた場合には、使用者の過失の有無にかかわらず労働者の損失を補償するのが相当であるという危険責任の法理に基づくものであることに鑑みると、業務起因性を肯定するためには、業務と死亡の原因となった疾病との間に条件関係が存在するのみならず、社会通念上、疾病が業務に内在ないし随伴する危険が現実化したものと認められる関係、すなわち相当因果関係があることを要するというべきであり、業務が単に疾病の誘因ないしきっかけに過ぎない場合には相当因果関係を認めることはできないのであって、この理は、疾病が精神障害の場合であっても異なるものではない。
ところで、現在の精神医学においては、精神障害の発症について、環境由来のストレスと個体側の反応性、脆弱性との関係で精神破綻が生じるかどうか決まるとする「ストレス脆弱性」理論によって理解することが広く受け入れられているところ、個体側要因(反応性、脆弱性)については客観的に把握することが困難である場合もあり、その機序は精神医学的に解明されていない。このように個体側の要因については、客観的に評価することが困難な場合がある以上、業務による心理的負荷と業務以外の心理的負荷が、一般的には心身の変調を来すことなく適応することができる程度のものに留まるにもかかわらず、精神障害が発症した場合には、その原因は、潜在的な個体側要因が顕在化したことに帰するものとみるほかないと解される。したがって、業務と精神障害の発症との間の相当因果関係の存否を判断するに当たっては、ストレス(業務による心理的負荷と業務以外の心理的負荷)と個体側の反応性、脆弱性を総合的に考慮し、業務による心理的負荷が、社会通念上、客観的に見て、精神障害を発症させる程度に過重であるといえる場合には、業務に内在ないし随伴する危険が現実化したものとして、当該精神障害の業務起因性を肯定することができると解すべきである。
これに対し、業務による心理的負荷が精神障害を発症させる程度に過重であるとは認められない場合には、精神障害は、業務以外の心理的負荷又は固体側要因のいずれかに起因するものといわざるを得ず、業務の過重性を理由として精神障害の発症につき業務起因性を認めることはできないと解すべきである。そして、業務による心理的負荷の有無及びその強度を判断するに当たっては、当該労働者と同種の労働者、すなわち職場、職種、年齢及び経験等が類似する者で、通常業務を遂行できる者を基準として検討すべきである。
2 業務起因性の有無
Tは、平成11年4月の配置転換により金融共済課貯金専任渉外係に配属され、主に推進業務を行うことになったところ、同業務の内容は、顧客候補者の所に出向き、人間関係を構築しながら、各顧客の様々なライフプランに合わせて、金融商品の購入や更新を勧誘するものであるから、金融商品についての高度な知識や営業技術が必要な業務といえるのであり、その業務内容は相当困難なものであったと認められる。
本件配転までのTの主な業務は、給油業務及び灯油の配達業務であり、推進業務に活かすことができるような業務を何ら経験してこなかったということができる。Tの性格は大人しく、給油所での接客ですら苦手であったというのであるから、各顧客と積極的に言葉を交わして人間関係を築き上げながら共済加入を勧誘する推進業務は、性格上向いていなかったというべきである。また、K農協ではTのように45歳で初めて金融部門の配属になることは珍しく、Tにとって、経験のない推進業務を克服していくことは相当困難であったというべきである。以上に照らせば、Tは本件配置転換により業務内容が大きく変化し、配置転換後の推進業務はそれ自体相当困難なものである上、経験的、性格的、年齢的にみてTにとって非常に困難な業務であることを併せ考えると、本件配置転換による業務内容の変化により受けた心理的負荷は、相当重いものであったというべきである。
確かに、本件配置転換は、Tが給油所以外の勤務に移ることを希望し、Tの父親がK農協の元役員に対して依頼したことを契機として検討され、本件配置転換前にT本人に対して意思確認し、Tから頑張る旨の回答を得た上で行われたものであり、決してTの意思に反して行われたものではない。しかしながら、そうであるからといって、本件配置転換による業務内容の変化の程度が変わるわけでもなく、業務の困難性が変わるわけでもないから、このような経緯は、本件配置転換による心理的負荷について検討するに当たって、重視するのは相当ではない。
K農協では、各職員に対し年間目標額を示しており、Tは新人扱いされずに年間目標は3億3500円とされていたところ、達成率は常時10%未満と極めて低かった。年間目標額が未達成であると、ペナルティとして翌年支所全職員に対し目標額が上乗せされ、未達成の職員のみならず他の職員にまで不利益が及ぶ制度であり、「ノルマ」としての性格を持つものといえる。また、Tの年間目標は、その経験・能力に照らして過大なものであり、実際にもその達成率は貯金専任渉外係の中で常に最下位で著しく低く、T1人が家族以外から契約を取れなかったのであるから、年間目標による心理的負荷は、Tにとって極めて大きなものであったというべきである。しかも、Tは平成11年7月22日の時点で、長期共済は3000万円しか達成しておらず、娘の生命共済3000万円を加えても、あと2億7500万円のノルマが残っていたこと、これ以上長期共済を獲得できる見込みはほとんどなく、同年7月の時点で、Tにとっては年間目標の達成は、客観的に見てほぼ不可能な状況であったというべきである。
Tは、平成11年4月23日から同月16日までの間、金融情勢、商品知識等についての研修を受けていること、同年5月12日、共済についての研修を受けていることからすれば、Tは、共済及び貯金の基礎知識や、振込決済業務、ローン推進の基礎知識を学ぶ機会をある程度は提供されていたといえるが、商品知識等の基礎知識については2日間、共済については2時間だけであり、Tが商品知識を理解するために必要十分な研修が行われたとまではいえない。Tの前任者は、同年4月中に10日程度顧客回りに同行して指導しているが、指導の中心は集金業務であり、推進業務については特に具体的な指導をしておらず、支所長や課長も、具体的な営業手法について相談に乗ったり指導をした形跡は窺えない。以上によれば、推進業務に適性のないTが推進業務をこなせるようになるには、顧客との話の仕方や商品内容の説明方法等について具体的に指導する必要があり、そのためには職場で支援体制を組む必要があったといえるが、実際には支援体制は組まれておらず、Tは同僚の好意に頼るしかない状況であり、支援体制が十分であったということはできない。以上に照らせば、推進業務の経験もなく、性格的にも推進業務が向かないTにとって、推進業務は困難なものといえ、支援体制が不十分であったことを併せ考えれば、推進業務の困難性による心理的負荷は極めて大きかったといわなければならない。
Tは、本件配置転換前は、午前7時30分頃から午後8時頃まで業務に従事していたが、本件配置転換後、平成11年5月以降、毎日1時間程度労働時間が増えた。これに加えて、Tは冬季以外は給油所で給油業務を行っていたが、本件配置転換後は、昼間は集金業務等のため、夜間は推進業務のため、1日中外回りをしなければならなくなった。このように労働時間が増えたこと、1日中外回りをしなければならなくなったことからすると、本件配置転換により肉体的疲労が蓄積していったことが推認できる。
S支所内では、Tの異動は父親の口利きによる異例のものであるという目で見られていたこと、Tは支所内で所長の次に年齢が高く、上司の課長と同年齢であったこと、T自身も推進業務の適性がなく、実際に成績も悪かったことからすれば、Tは肩身が狭く、年下の職員に頼ることもできず、職場内で良好な人間関係を築くことができなかったこと、それにもかかわらず支援体制を組んでもらえず、孤独感を感じていたことが窺われる。
Tには、精神障害の既往歴は認められず、これまでの生活史にも特段の問題はなく、アルコール依存症もない。また、Tは家族やK農協の関係者から、まじめで大人しいタイプとの評価を得ていたが、このようなTの性格に、同種の労働者の範囲を逸脱するような偏りがあるということはできず、他に同種の労働者の範囲を逸脱していることを窺わせる証拠はない。したがって、Tに精神障害の発症に寄与する個体側要因はなかったといわなければならない。
3 総合判断
上記事情を総合判断すれば、Tと同程度の経験、能力、年齢の同種の労働者を基準として考えた場合、業務の大きな変化、変化後の業務の困難性、経験及び能力に比して過大といえる年間目標により、精神的に重い負荷がかかり、同年4月、5月と1人で家族以外の者から共済の加入等を獲得することができず、年間目標達成率が係の中で最下位であったことにより不安感を持ち、同年5月中旬頃本件精神障害に罹患し、その後も、年間目標達成のため午後9時頃まで推進業務に回るも、Tの長期共済及び年金共済の年間目標の達成率は最下位のままで、月を追うごとにその差を広げられ、焦燥感、不安感に駆られ、外回りによる肉体的疲労と相まって心身共に疲弊して本件精神障害が増悪し、同年7月に支所長や課長から、身内に生命共済を掛けるのが早いなどと指導され、Tは小学1年生の娘に3000万円の生命共済を掛けることとしたが、それでも月別目標の5000万円に届かず、更には年間目標の達成まであと2億7500万円も残っている状態で、万策尽き、絶望して、自殺を考えるほどに精神障害が増悪したとしても不自然ではないと認められる。
よって、Tが従事した推進業務は、社会通念上、客観的にみて、自殺に至るほどの精神障害の増悪を生じさせる程度に過重の心理的負荷を与える業務であったと認めるのが相当である。
そして、Tに、本件業務以外の出来事による心理的負荷が窺えないこと、Tに特段の個体側要因が窺えないことに照らせば、本件精神障害の発症及びその増悪による自殺は、上記業務上の心理的負荷を主な原因として発症したといえるのであり、Tの従事した業務と本件精神障害の発症及びその増悪との間には相当因果関係が認められる。
以上によれば、Tの本件精神障害及び自殺に至るほどの本件精神障害の増悪には業務起因性が認められる。したがって、Tの本件精神障害及びこれに基づく本件自殺に業務起因性を否定した本件処分は、違法といわなければならない。 - 適用法規・条文
- 労働基準法79条、80条、労災保険法12条の8第2項、16条の2、17条
- 収録文献(出典)
- 労働判例964号35頁
- その他特記事項
- 本件は控訴された。
顛末情報
事件番号 | 判決決定区分 | 判決年月日 |
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福岡地裁−平成18年(行ウ)第37号 | 認容(控訴) | 2008年03月26日 |
福岡高裁−平成20年(行コ)第21号 | 控訴棄却(確定) | 2009年05月19日 |