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松本労基署長(S社)くも膜下出血死事件【過労死・疾病】
- 事件の分類
- 過労死・疾病
- 事件名
- 松本労基署長(S社)くも膜下出血死事件【過労死・疾病】
- 事件番号
- 長野地裁 − 平成15年(行ウ)第10号
- 当事者
- 原告 個人1名
被告 松本労働基準監督署長 - 業種
- 公務
- 判決・決定
- 判決
- 判決決定年月日
- 2007年03月30日
- 判決決定区分
- 棄却
- 事件の概要
- 被災者(昭和34年生)は、昭和57年10月に、情報関連機器、精密機器の開発・製造・販売等を主たる業務とするS社に入社し、平成12年11月頃、TP生産技術部に配属された。
被災者は、平成13年2月以降、海外現地法人の人材育成業務を担当し、フィリピンやインドネシアに頻繁に出張したほか、リワーク(製品の不具合、トラブル等が発生した際に現地へ赴き、原因究明、改善等を行う業務)業務のため、アメリカ、チリに出張した。
被災者は、平成12年11月から平成13年9月28日までの間、10回183日の海外出張をした。そして同年9月9日から28日までの間、被災者はインドネシアに出発し、帰宅した同月28日から同月30日までは休みであった。被災者は同日昼頃サッカーグランドに息子を連れて行き、サッカーを観戦していたところ、課長からの電話を受けて東京台場への出張の要請を受け、その日は用事があると口実を設けて自宅に戻って焼酎を飲んで就寝した後、翌1日台場へ出張した。S社ではプリンター4機種の発売日が迫っていたことから、交替制で作業は24時間体制で続けられ、被災者は午前9時から午後5時までの所定時間勤務した。同月2日、3日も被災者は同様な勤務を行い、同日夜飲食した際、頭痛を訴えたりした。翌4日、午前7時の集合時刻になっても被災者は集合場所に姿を見せず、その後ホテルの部屋において死亡しているところを発見された。死因はくも膜下出血と診断された。
被災者は、同年10月2日、夕食時にビール中ジョッキ1杯の外、就寝時にウィスキーをボトル半分程度飲み、また翌3日、夕食時にビール中ジョッキ1杯を飲んだほか、発見された際に、室内の酎ハイのロング缶の空き缶数本が置かれていた。また被災者は、健康診断において、肥満傾向、高脂血症、脂肪肝、多血症傾向が見られ、要治療とされていたほか、産業医に節酒を指導されていたが、問題となるような高血圧は見られなかった。
被災者の妻である原告は、被災者の疾病及びそれによる死亡は業務に起因するものであるとして、平成13年10月、被告に対し労災保険法に基づき遺族補償年金及び葬祭料の支給を請求したが、被告は被災者のくも膜下出血と業務との因果関係が認められないとして、いずれも不支給とする決定(本件処分)を行った。原告は本件処分の取消しを求めて審査請求をしたが棄却の裁決を受け、更に再審査請求をしたが請求後3ヶ月を経過しても決定がなされなかったことから、本件訴訟を提起した。 - 主文
- 1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。 - 判決要旨
- 労災保険法による遺族補償年金給付及び葬祭料が支給されるためには、労働者に生じた傷病等が「業務上」(同法7条1項1号、労働基準法75条1項)のものであることが必要であるところ、労働者の疾病等と労働者が従事していた業務との間に相当因果関係が認められることが必要である。また、労災保険制度が、業務に内在又は随伴する危険が現実化した場合に、それによって労働者に発生した損失を補填することを目的とするものであることからすれば、上記の相当因果関係が認められるためには、労働者が従事していた業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化として、当該疾病が発症したものと認められることが必要である。
被災者に発症したくも膜下出血を含む脳・心臓疾患は、基礎的病態(動脈瘤ないし血管病変)が、生体が受ける日常的な通常の負荷によって、徐々に進行及び増悪するといった自然経過を辿って発症するものであり、労働者に限らず一般の人々の間にも普遍的に数多く発症する疾患であるが、業務による過重な負荷が加わることにより、基礎的病態を自然経過を超えて著しく増悪させ、脳・心臓疾患を発症させる場合があることは医学的に広く認知されている。そうだとすると、被災者が過重な業務により、基礎的病態を自然経過を超えて著しく増悪させ、くも膜下出血を発症したと認められる場合に、業務に内在ないし随伴する危険が現実化したものと評価して、被災者の疾病(解離生動脈瘤の破裂によるくも膜下出血)の業務起因性を認めるのが相当である。
被災者は、平成12年11月13日から平成13年9月28日までの間に、合計183日間にわたる9回の海外出張をしているが、被災者が海外現地法人の支援を担当していた以上、海外出張が多いのは当然のことであり、被災者が生産技術部に配属される以前にも海外出張の経験を積んでいることなどにも照らせば、単に海外出張が多いことのみを理由としてその業務が過重であったと判断することはできず、被災者が従事していた業務の内容や実態等を具体的に検討して、それが被災者の基礎的病態を自然的経過を超えて著しく増悪させ得るほどの過重なものであったかを判断すべきである。
認定基準は、長期間の過重業務の判断に当たり、発症前1ヶ月間ないし6ヶ月間にわたって、1ヶ月当たり概ね45時間を超える時間外労働が認められない場合には、業務と発症との関連性は弱いと判断されるとしている。しかるに、被災者の平均時間外労働時間数を算出すると、発症前1ヶ月間が28時間、2ヶ月間が14時間、3ヶ月間が25時間50分、4ヶ月間が28時間8分、5ヶ月間が27時間6分、6ヶ月間が25時間25分程度である。したがって、被災者については、発症前1ヶ月間ないし6ヶ月間にわたっての1ヶ月当たりの時間外労働時間数は、いずれも30時間未満であり、認定基準の時間外労働時間の基準(45時間)をもはるかに下回るものである。認定基準に基づく被災者の労働時間の中には、出張のための移動時間が多く含まれており、ほとんど当月の時間外労働時間数を上回っている状態である。そうすると、労働時間の中にかなりの移動時間が含まれていることから、その労働の密度は高いものとはいえない。また、被災者が海外出張をして行う業務のうち、技能検定などの海外法人の人材育成業務については予め年度計画が立てられ、原則としてその計画に従って実施していくものであるから、海外出張の見通しを容易に立てることができ、予め出張の準備をすることも可能な性質のものである。被災者の海外出張業務のうちリワーク業務については、年間スケジュールで予め決まっている業務ではなく、急遽出張となったり、出張期間を延長することもあり得るが、アメリカ出張については遅くとも5日前、チリ出張については遅くとも15日前に日程が決定されていたと認められ、出張時に長時間労働をしたわけでもなく、業務内容も特に負担になるようなものであったとはいえないことも併せ考慮すれば、それにより大きな身体的又は精神的負担が生じるものとまでいうことはできない。
被災者が海外出張をして行う業務のうち、技能検定などの海外現地法人の人材育成業務については、現地労働者に対する教育内容が予めマニュアル等によって定められており、被災者はそれに従って教育及び試験を実施するのであるから、特に負担の大きな業務であるとはいえない。他方被災者は、人材育成業務のための出張計画の策定・実行についてはある程度の裁量権が与えられていたから、その意味では精神的負担の比較的少ない業務であったとも言い得る。
被災者の死亡前6ヶ月間における海外出張の状況について、同僚と比較すると、回数では、被災者は6回、Lは6回、Jは4回であり、1回当たりの出張日数は、被災者は13日間ないし19日間、Lは6日間ないし19日間、Jは22日間ないし43日間であり、これによれば、被災者の海外出張回数や出張期間が、同僚と比べて特別に大きなものであったとはいえない。
以上のとおり、被災者の長期間の業務をみると、多数回の出張をしているものの、長期間の時間外労働は認められず、その労働の密度も高くはなく、その勤務体系、業務内容、労働環境及び生活環境等にも照らせば、海外出張による疲労の回復が妨げられ、疲労が蓄積するような状態であったとは認められず、被災者の従事していた長期間の業務が、被災者の基礎的疾患を自然的経過を超えて著しく増悪させ、くも膜下出血を発症させ得るほどの過重な業務であったとは認められない。
台場出張の際の被災者の労働時間は、平成13年10月2日及び3日は7時間に過ぎず、初日である同月1日の労働時間は10時間であるが、そのうち4時間ないし5時間程度は移動時間であったから、その密度は高くはない。また、S社の従業員らは、当番制により24時間態勢で業務に従事しているが、被災者は午前9時から午後5時まで(1時間の昼休みを含む)の日勤の業務に従事したから、その勤務形態が不規則であるとか拘束時間が長いといった事情も認められない。更に被災者は台場出張前、インドネシア出張から帰宅した同年9月28日の午後は半休を取り、翌29日は1日休日で、翌30日午後に課長から連絡を受けるまで実質2日間休息することができたのであるから、台場出張に行くまでの間には疲労を相当程度回復することができたと考えられる。
もっとも、同年10月5日のプリンター発売開始日が迫っており、台場倉庫での作業にやや混乱が生じていた可能性が高く、台場倉庫における業務には緊急性があり、従業員らにはある程度の精神的緊張はあったものと考えられる。しかしながら、現場責任者である課長の部下である被災者がそれほど重大な責任を負っていたわけではなく、被災者の従事していた業務が著しい精神的緊張を伴うものとまでいうことはできない。また、被災者らの東京台場出張は、同月2日に2日間延長されているが、リワーク作業の性質上、出張期間が延長されることはある程度予測することが可能であるし、国内出張にすぎないことも考慮すれば、出張期間が延長されたことが被災者にとって著しい負担になったということも困難である。
以上のとおり、被災者が台場に出張して従事した業務については、やや突発的な経緯があり、ある程度緊急性がある業務であったとはいえるものの、被災者に長時間の時間外労働は認められない上、その勤務体系、業務内容、労働環境及び生活環境等にも業務の過重性を基礎付ける事情があるとはいえず、また被災者がくも膜下出血を発症した原因となった可能性のある要因として、被災者の死亡直前の飲酒行為という事情が存することにも照らせば、台場倉庫において被災者が従事した業務が、被災者の基礎的病変を自然経過を超えて著しく増悪させ、くも膜下出血を発症させたと認めることはできず、被災者の疾病と業務との間に相当因果関係(業務起因性)は認められない。 - 適用法規・条文
- 労働基準法75条、労災保険号7条1項
- 収録文献(出典)
- 労働経済判例速報2011号25頁
- その他特記事項
- 本件は控訴された。
顛末情報
事件番号 | 判決決定区分 | 判決年月日 |
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長野地裁 − 平成15年(行ウ)第10号 | 棄却 | 2007年03月30日 |
東京高裁 − 平成19年(行コ)第149号 | 原判決取消(控訴認容) | 2008年05月22日 |