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地公災基金鹿児島県支部長(M高校教員)心臓死控訴事件【過労死・疾病】

事件の分類
過労死・疾病
事件名
地公災基金鹿児島県支部長(M高校教員)心臓死控訴事件【過労死・疾病】
事件番号
福岡高裁宮崎支部 − 昭和62年(行コ)第1号
当事者
控訴人 個人1名
被控訴人 地方公務員災害補償基金鹿児島県支部長
業種
公務
判決・決定
判決
判決決定年月日
1993年01月12日
判決決定区分
原判決取消(控訴認容)
事件の概要
 N(昭和11年生)は、昭和43年4月からM高校農業土木科教諭に就任した者であり、昭和51年度には週16ないし18時間の授業を担当し、うち6時間は主として屋外でなされる測量実習であった。Nは同年度4年生の担任、教務主任となり、学校全体の教育カリキュラムのまとめ、教務全般の企画、行事予定の立案などのほか、不慣れな教頭に代わる関係団体、官公暑との連絡などを行った。同年度にはNは5月から12月にかけて校舎移転や創立30周年、農業教育研究会関係の仕事があったほか、生徒指導、3年生の就職指導、測量部顧問などの仕事も受け持った。

 Nは、昭和48年7月、中等度の僧帽弁不全症との診断を受け、通常の職務の継続は差し支えないが、激しい運動を避けるよう注意を受け、それ以降、タバコを止め、飲酒も極力控えるとともに、激しい運動も避けるようになったが、日常の公務については、これまでと同様の職務を継続した。

 昭和52年1月27日、Nは前日に卒業生の推薦書等の作成のため午前1時頃就寝したが、平常通り午前8時5分頃登校し、5時限目まで授業を行った後、PTA地区委員会に出席したところ、委員会開始約10分後の午後2時55分頃、突然意識不明となり卒倒した。Nは病院に搬送されて診察を受けたところ、脳血栓症との診断を受け、その後も発作が続き、午後9時15分、Nの死亡が確認された。

 Nの妻である控訴人(第1審原告)は、Nの死亡は公務に起因するものであるとして、被控訴人(第1審被告)に対し、地方公務員災害補償法に基づき、公務災害の認定を請求したところ、被控訴人はNの死を公務に起因したものとは認められない旨の決定(本件処分)をした。控訴人は本件処分を不服として審査請求、更には再審査請求をしたが、いずれも棄却の裁決を受けたため、本件処分の取消を求めて本訴を提起した。
 第1審では、Nの死亡と公務の遂行との間に相当因果関係は認められないとして、控訴人の請求を棄却したことから、控訴人はこれを不服として控訴した。
主文
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人が控訴人に対し地方公務員災害補償法に基づき昭和53年3月31日付けでなした公務外認定処分を取り消す。
3 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
判決要旨
 地方公務員災害補償法31条は、職員が公務上死亡した場合において、遺族補償として、職員の遺族に対して遺族補償年金又は遺族補償一時金を支給する旨規定しているが、ここにいう公務上の死亡とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病により死亡したことをいい、公務の遂行と死亡との間に相当因果関係が認められることが必要であると解される。そして職員がかねて基礎疾病に罹患しており、その増悪の結果死亡の結果を招いた場合であっても、基礎疾病の増悪について公務の遂行が相対的に有力な原因として作用し、その結果右基礎疾病を急激に増悪させて死亡の時期を著しく早めるなど、公務の遂行が基礎疾病と共働原因となって死亡の結果を招いたと評価できる場合には、右公務の遂行と死亡との相当因果関係を肯認できるというべきである。

 そこで、本件においてNの基礎疾病と同人が従事した公務との関係について検討するに、Nの昭和51年4月以降の勤務状況は、週15時間の農業土木関係の授業及び週1時間のクラブ活動授業、4年生担任としての仕事、教務主任としての仕事、その他校舎移転関係等の仕事であったところ、週16時間の授業等は前年度と変わらず、かつ他の教職員とほぼ同程度の仕事量であり、1年生ないし3年生の担任とは異なり、担任生徒が在校することに伴う仕事からは解放されるので、4年生担任としての仕事が他の教職員と比較して特に過重であるとは認め難い。しかしNは、昭和51年以降、校務分掌上枢要な教務主任の地位に就き、授業時間数を軽減されるべきところ軽減されないまま4年生担任の仕事と合わせて右職務に従事したほか、校舎移転に係わる仕事等も行い、M高校の中心的存在として職務に精励していたものであり、死亡前3ヶ月間、ほぼ毎日のように残業や仕事を持ち帰って自宅でも公務を行っていたものである。

 Nの公務は、昭和50年度までは格別の変化はなく、またある程度の心不全状態を繰り返しながらも、目立った増悪は認められない。しかるに、Nは昭和51年4月以降、教務主任に就いて相当多忙となり、しかも校舎移転関係の仕事にも従事し、移転が終わるまで約700m離れた実験室まで徒歩あるいは自転車で行かなければならない状態になったことや、夏期に1週間程度関西方面に出張したことなどに符合して同年6月に心臓愁訴を感じて休暇を取っているのであり、同年10月以降から同年末までの間、度々感冒等の感染症に罹患しているのであって、この頃既にNの慢性心不全の状態は相当悪化していたものと認められる。

被控訴人は、Nは相当多忙であったとしても、ベテラン教諭であったから、特にそれが過重であったとはいえないし、主に机上の仕事であるから心臓に負担のかかるものとはいえない等と主張する。確かに、Nの仕事が主として机上の仕事であって、心臓に最も大きな負担をかける肉体労働等でないことはそのとおりであるが、Nは他の同僚教員よりも多忙であって、特に僧帽弁閉鎖不全症という基礎疾患を有するNにとっては、いかに校務に習熟しているとはいえ、負担としてより大きなものであったといえるし、実験を伴う農業土木科の教員の仕事を、専ら机上の仕事で何ら心臓に負担を及ぼさないと断じることは疑問なしとせず、いずれにしても仕事として相当の緊張を伴うことは否定できない。Nは昭和51年9月頃には既に慢性心不全の状態にあったと認められるから、慢性心不全状態のため抵抗力が弱くなって感冒等に罹患しやすい状態になり、このため容易に感冒に罹患し、これを繰り返すことによって心不全の状態を悪化させていったと考えるのが相当である。

そして、Nは公務以外の日常生活においては、規則正しい生活を送るなど厳しく自己管理をし、特にこれを乱し、あるいは激しい運動をしたような事実は認められないのであって、右のように公務以外で厳しく自己管理していたNが、前記のような心愁訴を覚えるに至った原因としては、公務の影響以外に他に原因を見出し難いものというほかない。

昭和52年に入ってから死亡までの間、Nは10日間の冬季期間中も、年末年始に訪問してくる4年生の接待に追われ、休暇明けから死亡当日まで通常の公務に従事したが、特に公務が過重であったとまでは認められない。しかし、Nは年末年始であったこともあり、約1ヶ月間通院せず、同年1月21日に撮影されたレントゲン写真により、慢性心不全状態は悪化した状態にあったのであり、相当の安静を要する状態にあったものと認められる。しかるに、Nは、医師において心不全状態は寛解しているものと判断し、安静の指示もなかったこともあり、通常の公務に従事し、授業を行って疲労感を訴え、更に校長から生徒の専門学校入学ができなくなったことを聞いて相当興奮し、その後倒れたものである。
以上の諸点を総合して判断するに、Nの死亡は、その基礎疾患たる僧帽弁不全症が、昭和51年度以降の公務によって経年的自然増悪を越えて増悪して心不全の状態になり、更にその増悪し、慢性化した状態で安静を取ることなく公務に従事したため、心室細動又は心室頻脈の不整脈を起こしたことによるもので、基礎疾患と公務が共働原因となって発生したものというべきであるから、Nの死亡と公務との間に相当因果関係を認めるのが相当である。
適用法規・条文
地方公務員災害補償法31条、42条、45条
収録文献(出典)
労働判例666号70頁
その他特記事項