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静岡労基署長(N社)うつ病自殺事件【うつ病・自殺】
- 事件の分類
- うつ病・自殺
- 事件名
- 静岡労基署長(N社)うつ病自殺事件【うつ病・自殺】
- 事件番号
- 東京地裁 - 平成18年(行ウ)第143号
- 当事者
- 原告 個人1名
被告 国 - 業種
- 公務
- 判決・決定
- 判決
- 判決決定年月日
- 2007年10月15日
- 判決決定区分
- 認容(確定)
- 事件の概要
- K(昭和42年生)は、大学卒業後の平成2年4月にN社に入社し、大阪支店に勤務した後、平成9年4月から名古屋支店静岡営業所静岡2係に所属して、医療情報担当者(MR)として勤務していた。
平成14年4月、N社は静岡2係のテコ入れを図るため、係長Fを配置し、同係はF、Kらの3名体制となった。Fは大きな声で、一方的に、相手の性格や言い方等に配慮せず傍若無人な話し方をする性格であり、営業方法等についてKを指導する中で、「存在が目障り」「お願いだから消えてくれ」「何処へ飛ばされようと、Kは仕事をしない奴だと言いふらしたる」「給料泥棒」「お前は対人恐怖症やろ」などと仕事に関して激しく罵倒したほか、Kが身なりに無頓着で、ふけがひどかったり、喫煙による口臭がひどかったりしたことから、「お前病気と違うか」などと罵った。
平成15年1月から3月にかけて、Kは医師から新規患者の紹介を受けながら多忙を理由にこれを断る、患者を長時間待たせて土下座して謝罪する、医師からシンポジウムの案内を受けていない等のクレームを受けて所長が謝罪するなどのトラブルが続いた。
Kは、平成15年2月中旬頃から食欲、興味、性欲が減退し、同年3月7日未明、家族や上司を名宛人とする8通の遺書を残し、公園の立木の枝で縊首して自殺した。Fは、Kの告別式で、Kの遺族に対し、Kのふけや喫煙による口臭がひどく、Kに対し、肩にふけがベターと付いていて、お前病気と違うかと言ったことを告げたほか、営業先で医師等と意思疎通をしようとしないし、できなかったことを指摘した。
Kの妻である原告は、平成16年2月20日、労働基準監督署長に対し、Kの死亡は業務に起因するものであるとして、労災保険法に基づく遺族補償年金及び葬祭料の支給を請求したが、同署長は同年11月29日、これを不支給とする本件処分を行った。原告はこれを不服として、労災保険審査官に対し審査請求をしたが棄却され、更に労働保険審査会に対し再審査請求をしたが、その裁決が出される前に本訴を提起した(本訴提起後の平成19年5月28日、再審査請求は棄却された)。 - 主文
- 1 静岡労働基準監督署長が原告に対し平成16年11月29日付けでした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。 - 判決要旨
- 1 業務起因性の判断基準
労災保険法に基づく保険給付は、労働者の業務上の死亡等について行われるところ(同法7条1項1号)、労働者の死亡等を業務上のものと認めるためには、業務と死亡との間に相当因果関係が認められることが必要である。また、労災保険制度が、労働基準法の危険責任の法理に基づく使用者の災害補償責任を担保する制度であることからすれば、上記の相当因果関係を認めるためには、当該死亡等の結果が、当該業務に内在する危険が現実化したものであると評価し得ることが必要である。
精神障害の発症については、環境由来のストレスと、個体側の反応性、脆弱性との関係で、精神的破綻が生じるかどうかが決まるという「ストレス-脆弱性」理論が、現在広く受け入れられていると認められることからすれば、業務と精神障害の発症との間の相当因果関係が認められるためには、ストレスと個体側の反応性・脆弱性を総合考慮し、業務による心理的負荷が、社会通念上、客観的にみて、精神障害を発症させる程度に過重であるといえる場合に、業務に内在又は随伴する危険が現実化したものとして、当該精神障害の業務起因性を肯定するのが相当である。
労働者の自殺についての業務起因性が問題となる場合、通常は当該労働者が死の結果を認識し認容したものと考えられるが、少なくとも、当該労働者が業務に起因する精神障害を発症した結果、正常な認識、行為選択能力が著しく阻害され、自殺を思い止まる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺に至った場合には、当該労働者が死亡という結果を認識し認容していたとしても、当該結果を意図したとまではいうことができず、労災保険法12条の2の2第1項にいう「故意」による死亡には該当しないというべきである。
ICD―10のF0〜F4に分類される精神障害の患者が自殺を図ったときには、当該精神障害により正常な認識、行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていたと推定する取扱いが、医学的見地から妥当であると判断されていることが認められるから、業務により発症した上記F0〜F4に分類される精神障害に罹患していると認められる者が自殺を図った場合には、原則として、当該自殺による死亡につき業務起因性を認めるのが相当である。その一方で、自殺時点において正常な認識、行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていなかったと認められる場合や、業務以外のストレス要因の内容等から、自殺が業務に起因する精神障害の症状の蓋然的な結果とは認め難い場合等の特段の事情が認められる場合には、業務起因性を否定するのが相当である。
2 Kの精神障害の業務起因性
事実認定、判断及び医師の意見を総合すると、Kは平成14年12月末〜平成15年1月中旬の時期に精神障害を発症したと認めるのが相当であり、その後も症状が継続し、遅くとも同月中には、F32.0軽症うつ病エピソードと診断し得る状態に至ったと認めるのが相当である。Kが遺書においてFの言動を自殺の動機として挙げていること、KがFの着任後、しばしばFとの関係が困難な状況にあることを周囲に打ち明けていたこと、Kの個体側の要因に特段の問題が見当たらないことについて当事者間に争いがないことからして、Kが精神障害を発症した時期までにKに加わった業務上の心理的負荷の原因となる出来事としては、FのKに対する発言を挙げることができる。
一般に、企業等の労働者が、上司との間で意見の相違等により軋轢を生じさせる場合があることは避け難いものである。そして、評価表は、精神障害の発症の原因としての業務上の出来事の一つとして「上司とのトラブル」を挙げ、ストレス要因の平均強度を2(中程度)と評価している。上司とのトラブルに伴う心理的負荷が、企業等において一般的に生じ得る程度のものである限り、社会通念上客観的にみて精神障害を発症させる程度に過重であるとは認められないものであるが、そのトラブルの内容が、通常予定されるような範疇を超えるものである場合には、従業員に精神障害を発祥させる程度に過重であると評価されるのは当然である。
被告は、Fとの関係に伴う心理的負荷は、「上司とのトラブル」の平均的心理的負担の程度である2に止まると主張するが、以下の点に照らしていえば、Kが業務上接したFとの関係の心理的負荷は、平均的強度を大きく上回るものであると言わなければならない。
第1に、FがKに対して発した言葉自体の内容が、過度に厳しいことである。Fの言葉はKの10年以上のMRのキャリアを否定し、MRとして稼働することを否定するばかりか、中にはKの人格、存在自体を否定するものである。このような言葉が企業の中で上位で強い立場にある者から発せられることによる部下の心理的負荷は、通常の「上司とのトラブル」から想定されるものよりも更に過重なものである。
第2に、FのKに対する態度に、Kに対する嫌悪の感情の側面があることである。FのKに対する発言は、基本的には業務上の指導の必要性に基づいて行われたものと解されるが、言葉自体の内容に加え、営業活動の基本すらできておらず、身なりもだらしないというKに対する評価、Kの死後に同僚やKの親族に対してした発言内容からも、FがKに対し嫌悪の感情を有していたことが認められる。Fの発言が仮に主観的には上司としての指導的な意図に基づいたものであるとしても、その発言を受ける側から見れば、Fの性格やものの言い方も相まって考えるならば、その悪感情の側面は、Kの心理的負荷を過重させる要因であるといえる。
第3に、FがKに対し極めて直截なものの言い方をしていたと認められることである。Fの性格と他人に対する態度は、自分の思ったこと、感じたことを、特に相手方の立場や感情を配慮することなく直裁に表現し、しかも大きい声で傍若無人に発言するというものであり、そこには通常想定されるような「上司とのトラブル」を大きく超える心理的負荷があるといえる。
第4に、静岡2係の勤務形態が、上司とのトラブルを円滑に解決することが困難な環境にあることを挙げることができる。同係の勤務形態からして、KはFから受ける厳しい言葉を、心理的負荷のはけ口なく受け止めなければならなかった上、周囲の者や本件会社がKの異常に気付き難い職場環境にあったものと認められ、FのKに対する言動を本件会社の職制として探知、察知して、何らかの対処をした形跡を認めることはできない。このような勤務形態と管理態勢の問題も相まって、本件会社はFによるKの心理的負荷を阻止、軽減することができなかったと認められる。Kの自殺後、同僚らがKとFとの関係に言及し、このままではまたKのような犠牲者が出る旨述べたという事実は、Kの受けた心理的負荷が、同種労働者にとって、判断指針が想定している「上司とのトラブル」を大きく超えていることを根拠付けている。
以上によれば、FのKに対する態度によるKの心理的負荷は、人生において希に経験することもある程度に強度のものということができ、一般人を基準として、社会通念上、客観的にみて、精神障害を発症させる程度に過重なものと評価するのが相当である。Kは、平成14年12月末〜平成15年1月中に精神障害を発症したところ、これに先立つ平成14年秋頃から、Fの言動により社会通念上、客観的にみて精神疾患を発症させる程度に過重な心理的負荷を受けており、他に業務外の心理的負荷やKの個体側の脆弱性も認められないことからすれば、Kは業務に内在ないし随伴する危険が現実化したものとして、上記精神障害を発症したと認めるのが相当である。
3 Kの自殺の業務起因性
前記のとおり、業務に起因してICD―10のF0〜F4に分類される精神障害を発症し、それに罹患していると認められる者が自殺を図った場合には、自殺時点において正常な認識、行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていなかったと認められるとか、業務以外のストレス要因の内容等から自殺が業務に起因する精神障害の症状の蓋然的な結果とは認め難いなどといった特段の事情が認められない限りは、原則として、当該自殺による死亡は故意のものではないとして、業務起因性を認めるのが相当である。
上記のとおり、Kは業務に起因して、ICD-10のF43、21遷延性抑うつ反応(適応障害)ないしF32、0軽うつ病エピソードという精神障害を発症したと認めることができる。そして、Kは自殺直前に至るまで、抑うつ気分や食欲、興味・関心、性欲の低下といった症状が続いていること、Kは本件各トラブルに表れているとおり思考力、判断力の低下を示していることという各事情に照らすと、Kが発症した精神障害が自殺までの間に治癒、寛解したものとは認められない。そして、Kが家族と職場の上司、同僚に残した遺書の中には、うつ病エピソードの診断ガイドラインに該当する症状である抑うつ気分、易疲労性、悲観的思考、自信の喪失、罪責感と無価値感が表れていたと認めることができるから、Kの自殺時の希死念慮も精神障害の症状の一環と見るのが自然であって、Kの自殺が、精神障害によって正常な認識、行為選択能力及び抑制力を阻害された状態で行われたという事実を認定することができる。
以上からすると、業務に起因してICDの10のF0〜F4に分類される精神障害を発症したKは、当該精神障害に罹患したまま、正常の認識及び行為選択能力が当該精神障害により著しく阻害されている状態で自殺に及んだと推定されるから、Kの自殺は、故意の自殺ではないとして、業務起因性を認めるのが相当である。以上によれば、Kの自殺による死亡が業務に起因するものではないことを前提にして行われた本件処分は違法である。 - 適用法規・条文
- 07:労働基準法75条、
労災保険法7条、12条の2の2第1項、16条の2、17条 - 収録文献(出典)
- 労働判例950号5頁、労働経済判例速報1989号7頁
- その他特記事項
顛末情報
事件番号 | 判決決定区分 | 判決年月日 |
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