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奈良労基署長(N工業所長)うつ病自殺事件【うつ病・自殺】

事件の分類
うつ病・自殺
事件名
奈良労基署長(N工業所長)うつ病自殺事件【うつ病・自殺】
事件番号
大阪地裁 − 平成18年(行ウ)第17号
当事者
原告個人1名

被告国
業種
公務
判決・決定
判決
判決決定年月日
2007年11月12日
判決決定区分
認容(確定)
事件の概要
 D(昭和29年生)は、大学卒業後の昭和52年4月に、環境プラントのオペレーション、メンテナンスなどを業とするN社に入社し、昭和62年以降、同社の生駒浄水場所長として勤務していた者である。

 N社は平成14年9月に組織改革を行い、本社と全国各地の事業場を結ぶ核として40箇所のサービスセンター(SC)を設置し、所長であるDは奈良SC長も兼務するようになった。同SC長は、総務・経理・人事・労務に関する業務と営業関係業務を担当したが、Dは兼務中は生駒浄水場を離れられないため、週に2回位浄水場の勤務を終えてから奈良SCに赴き、書類の決裁などSC長としての業務を行った。

 Dの労働時間についてはタイムカードのような客観的な資料は残っていないが、平成14年夏頃から残業が増え、同年9月16日以降は、毎日午後9時30分から10時30分頃の間に帰宅するようになり、月当たり時間外労働時間は46時間ないし52時間ほどとなったほか、仕事を自宅に持ち帰り、早朝や休日に仕事を行うようになった。

 Dの上司であったGは、Dが奈良SC長を兼務して以降、営業業務をフォローした面はあるものの、Dを叱咤し、突き放すような関わり方をしており、大勢の前でDを無能よばわりすることもあった。また、DはE所長代理を片腕として頼りにしていたが、平成14年10月にDの慰留にもかかわらずEは退職し、その結果、生駒浄水場の業務が増加するとともに、後任者選定のための業務も付加された。

 N社は、同年11月11日と12日、社長ほか役員も多数出席し、SC長の研修を行った。第1日目の夜、研修生全員が出席する懇親会が開かれ、取締役東京本部長であるHは、社長や役員も含めた全員の前で、Dのことを「頭がいいのだができが悪い」「何をやらしてもアカン」「その証拠として奥さんから内緒で電話があり「主人の相談に乗って欲しい」と言った」などと発言した。そして、翌12日早朝、Dは宿泊先のホテルの窓から飛び降り自殺した。
 Dの妻である原告は、Dの自殺は業務に起因するものであるとして、平成15年11月10日、労働基準監督署長に対し、遺族補償年金及び葬祭料の支給を請求したところ、同署長は平成16年12月1日、不支給決定処分を行った。原告はこれを不服として労災保険審査官に対し審査請求をしたが、棄却の決定を受け、更に労働保険審査会に対し再審査請求をしたが、裁決を待たずに、本件処分の取消しを求めて提訴した。
主文
1 奈良労働基準監督署長が、原告に対して平成16年12月1日付けでした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料を支給しないとする処分を取り消す。
2 訴訟費用は、被告の負担とする。
判決要旨
1 業務起因性の判断基準

 労災保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の保険給付は、労基法79条及び80条所定の「労働者が業務上死亡した場合」に行われるものであるところ(労災保険法12条の8第2項)、労働者の死亡を「業務上」というためには、業務と死亡の原因となった疾病等との間に条件関係が存在するのみならず、社会通念上、当該被災者の疾病等が業務に内在ないし随伴する各種の危険が現実化したものと認められる関係、すなわち相当因果関係が存することを要すると解される。

 労働者が自殺した場合には、労災保険法12条の2の2第1項が、「労働者が、故意に負傷、疾病、傷害若しくは死亡又はその直接の原因となった事故を生じさせたときは、政府は、保険給付を行わない」と規定しているため、その業務起因性が問題になる。しかし、労働者が自殺した場合であっても、労働者が精神障害を発症した結果、正常な認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺を思い止まる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺が行われた場合であって、上記精神障害が、業務に起因することが明らかな疾病(労働基準法施行規則別表第1の2第9号)であれば、自殺による死亡につき業務起因性を認めることができる。

 また、精神障害の発症について、未だ十分に解明されていないが、環境由来のストレスと個体側の反応性、脆弱性との関係で精神的破綻が生じるかどうかが決まるという「ストレス脆弱性」理論が、精神医学の領域において広く受け入れられていることからすれば、業務と精神障害の発症との間の相当因果関係が認められるためには、ストレスと個体側の反応性、脆弱性を総合考慮し、業務による心理的負荷が社会通念上、客観的にみて、精神障害を発症させる程度に過重であるといえる場合に、業務に内在ないし随伴する危険が現実化したものとして、当該精神障害の業務起因性を肯定するのが相当である。

2 業務上の心理的負荷

 生駒浄水場所長業務の負荷については、所長自身が監視及び運転操作業務に従事する必要があり、その業務量は少ないとはいえないこと、所長が現場を離れることができなかったことから、仕事の裁量性・自由度は他の所長に比べて低かったと解されること、信頼できるE課長代理が退職することになったこと等に鑑みると、生駒浄水場所長の業務上の心理的負荷がなかったとはいえない。

 被告は、営業以外の多くは決済業務であって、SC長の業務上の負荷は大きくない旨主張するが、他社と競合している状況で顧客を失った場合、当該事業場の多くの従業員が宙に浮いてしまう重大な結果を招来すること、Dが契約更改業務を担当していなかったとしても、本来的には自己の職務となっていたこと、Dは現場での顧客折衝程度の営業経験しかなく、主として技術畑で働いてきたこと、上司であるGが人的手当についてDを突き放す姿勢であったことに鑑みると、管轄事業場全体の営業及び新規獲得事業に対する人的手当をしていくことの心理的負荷は相当大きいものであったというべきである。更にSC長は、各事業場の所長をまとめていく立場の者であり、質的に異なる業務に就いたものとして、新たな心理的負荷があったというべきである。

 被告は、SC長の業務が限られており、Gらの協力・援助があったから、Dの仕事内容に過大な心理的負荷を及ぼす大幅な変化がなかったこと、他のSC長でうつ病を発症した者はいないこと等を主張するが、SC長が果たすべき課題・業務は広範・多岐にわたるものであって量も多かったこと及び兼務前よりも著しく業務量が増えていることが認められる。しかもこれらの業務を生駒浄水場所長と兼務することによる心理的負荷は極めて大きかったと解され、以上のような状況下において、Gとの人間関係が良好ではなく、取締役であるHも援助が十分にできていなかったことに鑑みると、Dの心理的負担が上司らにより有意的に軽減されていたとはいい難い。

 Dが奈良SC長兼務となって以降、業務量の増大に対応して、Dの残業時間が増加し、自宅に仕事を持ち帰ることから、兼務以前に比べるとDの労働時間は明らかに増加していたのであって、残業時間だけで月52時間15分以上となっていた。また、生駒浄水場において、平成14年11月以降、外部施設の巡回点検業務が増えること、Eの退職に伴う業務の増加や人事異動案件が発生したこと、引継ぎが進むにつれてDの果たすべき業務の量も増えることに鑑みると、Dの労働時間は増加傾向にあったとはいえ、それ自体がDの不安ないし心理的負荷の一要素であったと解される。加えて、Dは奈良SC長に就任して僅か2ヶ月間に部下の失踪ともいうべき無断欠勤問題や、Eの退職による負担増加と後任者選定業務の増加、更にはEの退職に伴い自己の兼務解消の具体的見込みがつかなくなったという想定外の問題に同時期に直面したのみならず、Gとも意見が合わず、突き放されるような対応をされていたことに鑑みると、以上の事情による負荷が相乗効果的に作用して大きくなったものと解される。

 以上を総合勘案すると、年齢、経験、業務内容、労働時間、責任の大きさ、裁量性等からみて、Dは精神障害を発症若しくはこれを相当増悪させる程度に過重な心理的負荷を業務上負っていたと認めるのが相当である。そして、Dの状態に鑑みると、Dは上記心理的負担の結果、平成14年11月頃うつ病を発症したと解される。

 H発言は、研修終了直後に会社において、役員ら列席のもと、研修参加者全員が出席する懇親会の席上行われたものであり、これによる負荷は業務上のものと解される。そしてH発言は、酔余の激励とはいえ、通常公表を臨まないようなプライベートな事情を役員や多数のSC長の面前で暴露するものである上、無能よばわりされたと受け取ることもやむを得ないような不適切な発言をしたものというべきである。また、Dにとって、仲人でもあり、頼みの綱として信頼していたHから上記の如き発言をされることの心理的ショックは極めて大きなものであったと解される。したがって、H発言は、職場において日常的に見受けられる職場のストレスと一線を画するものといえ、言われた者にとっては、にわかに忘れることの困難な、かつ明らかなストレス要因となる発言であり、社会通念上、精神障害を発症ないし増悪させる程度に過重な心理的負荷を有するものと解される。そして、このストレスが、Dの精神障害発症後に加わった心理的負荷であったとしても、精神障害の増悪の原因となり、その程度も大きいものであったと認められることからすると、H発言を業務起因性の判断の際の要素として考慮すべきであると考える。

3 業務以外の心理的負荷

 Dは、当時、両親、子供(高一、中二)と特段問題のない家庭生活を送るなどしており、業務以外の心理的負荷となる出来事を認めるに足りる証拠はない。

4 Dの脆弱生

 Dは、精神疾患の既往歴はなく、生活史やアルコール依存など特に問題となる事実は認められない。Dは、真面目で几帳面、明るく穏やか、親切、誠実、冷静、責任感が強い、簡単に物事をあきらめないと評される性格であるが、精神障害や生活史の点で社会適応状況には特記すべき事情は存在せず、性格上の特に問題となる偏りなども認められない。

5 本件自殺の業務起因性

 Dには、社会通念上、精神障害を発症若しくはこれを相当程度増悪させる程度に過重な心理的負荷を業務上負っていたというべきである。一方、Dは業務以外の心理的負荷は認められず、精神疾患などのD側の脆弱性を窺わせる事情は認められない。
これらを総合勘案すると、Dのうつ病の発症・増悪及び自殺は、業務に内在する危険性が現実化したものというべきであり、業務とDの死亡との間には相当因果関係が認められる。以上によれば、Dの死亡は、その従事した業務に起因するものというべきであるから、これを業務上の死亡と認めなかった本件処分は違法であり、取り消されるべきである。
適用法規・条文
07:労働基準法79条、80条,

労災保険法12条の2の2第1項、12条の8第2項、16条の2、17条
収録文献(出典)
労働判例958号54頁、労働経済判例速報1989号39頁
その他特記事項