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中央労基署長(N社)くも膜下出血死控訴事件【過労死・疾病】

事件の分類
過労死・疾病
事件名
中央労基署長(N社)くも膜下出血死控訴事件【過労死・疾病】
事件番号
東京高裁 − 平成11年(行コ)第204号
当事者
控訴人 中央労働基準家督署長
被控訴人 個人1名
業種
公務
判決・決定
判決
判決決定年月日
2000年08月09日
判決決定区分
控訴棄却(上告)
事件の概要
製本業を営むN社の裁断工と勤務していたTは、昭和62年11月28日午前、作業中にくも膜下出血を発症し、そのまま死亡した。Tの妻である被控訴人(第1審原告)は、Tのくも膜下出血による死亡は業務に起因するものであるとして、控訴人(第1審被告)に対し、労災保険法の遺族補償給付及び葬祭料の支給を請求したが、控訴人はこれを不支給とする処分(本件処分)を行った。被控訴人はこれを不服として審査請求、再審査請求を行ったが、いずれも棄却されたことから、本件処分の取消しを求めて本訴を提起した。
 第1審では、Tの業務内容、勤務状況等から見て過重な負荷が認められるとして、Tのくも膜下出血に業務起因性を認め、本件処分を取り消したことから、控訴人がこれを不服として控訴した。
主文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
判決要旨
くも膜下出血は、その原因が脳動脈瘤破裂と脳内出血の脳室への穿破のいずれにあったとしても、その発症の基礎となる血管病変等が加齢や高血圧等の生活上の諸般の要因(危険因子)の集積により増悪し発症するものであり、業務に特有の疾病ではないから、業務とくも膜下出血との間に相当因果関係があるというためには、その業務にくも膜下出血の発症を自然経過を超えて著しく促進させる過重負荷が存在していたと認められることが不可欠であり、業務上の負荷と他の要因とが競合している場合には、客観的にみて業務上の過重負荷が中心的若しくは有力な原因をなしていることが必要である。もっとも、業務が労働者の疾病を自然経過を超えて著しく促進させるものと認められない場合であっても、労働者の疾病が客観的にみて安静を要するような状況にあるにもかかわらず、労働者において休暇の取得その他安静を保つための方法を講じることができず引き続き業務に従事しなければならないような事情が認められるときは、そのこと自体が業務に内在する危険であるということができるから、右事情の下に業務に従事した結果労働者の疾病が自然経過を超えて著しく増悪したときはこれを業務に起因するものというべきである。

 昭和62年11月10日から同月27日までの間のTの勤務は平素より多忙で残業が連続していたものの、15日と22日の日曜日は仕事をしておらず、25日から27日の勤務も27日にそれまでより1時間ほど遅い午後9時07分まで残業した程度であって、これが特に過重過密で同人に過大な精神的、肉体的負荷を負わせるものであったとはいえず、通勤時間を考慮してもTの睡眠時間が極端に不足する状況にはなかったと認められるから、本件発症日の直前頃のTの精神的、肉体的なストレスが業務が原因となって極度に高まっていたとみることは相当でない。また、死亡10日前頃のTに本件発症の基礎的疾患としての脳動脈瘤が存在していたことが強く疑われるところ、Tは連続して午後8時過ぎまで残業することがある反面、定時に帰宅することも相当日数あり、10月には公休1日を挟み6日間の有給休暇を取得していることが認められる。このような勤務状況に裁断作業自体の精神的、肉体的な負荷の度合いを合わせて考えると、昭和62年中のTの業務が脳動脈瘤を形成させるほどの負荷となっていたと認めることは困難であるから、Tの脳動脈瘤が業務上のストレスにより形成されたとまでみることはできず、昭和61年以前の業務が脳動脈瘤形成の原因をなしたと認めることもできない。そうすると、Tの業務が過重過密で同人に過大な精神的、肉体的負荷を負わせたことを前提としてTの睡眠不足(あるいは長時間労働による身体不調)と右ストレスによる血圧の上昇により脳動脈瘤の脆弱化を来す退行変性が自然経過を超えて著しく進行して脳動脈瘤の破裂に至ったと考えることは、なお根拠が薄弱であるといわなければならない。

 しかし、くも膜下出血発症の機序にはなお未解明の部分があり、くも膜下出血の発症の危険因子を単に高血圧だけに求めることで説明しきれないことは、日常的に高血圧を示していない者についても脳動脈瘤が形成されることがあることは明らかであり、生体が受ける諸種のストレスもまた危険因子として否定することができず、年末の繁忙期を迎えて残業が続いていたTの業務がストレスとなって同人の脳動脈瘤内圧の上昇をもたらした可能性が認められる。

以上を総合すると、11月10日から同月27日までの業務が多忙であってTの負担が高まっていたといえるにしても、これが過重負荷としてTに自然経過を超えて急激にくも膜下出血をもたらしたとみることは合理的な根拠がなく相当でない。しかし、Tは死亡10日前頃右目上部の頭痛を被控訴人に訴えているほか、死亡の2日前と当日にも同僚等に頭痛等の身体的変調を訴えていることが認められるところ、これらは脳動脈瘤の異常膨張による頭痛である可能性が強く、くも膜下出血の前徴候症状と考えられる。そこで、このような症状が発現しているにもかかわらずTが業務に従事したことをもって業務に内在する危険が現実化したものとして業務起因性を是認することができるか否かについて更に検討する必要がある。

 長年の経験を有するTが会社の裁断作業を一手に引き受けてきたものと認められ、そのためTは会社の繁忙期に休暇を取得することには相当の心理的抵抗があり容易に休暇を取得することができない状況にあったものと推察される。しかも例年11月半ばから12月にかけては会社が最も繁忙な時期に当たり、そのような時期にTが突然休暇を取得したときは会社全体の作業の段取りに大きな支障を来すことが懸念される状況にあったことが認められ、またTがくも膜下出血を発症した昭和62年11月28日は最も多量かつ負担の大きい婦人倶楽部新年号の裁断を目前に控えている時期にあったから、他に裁断工がいないことを承知しているTとしては、たとえ身体の不調を理由とするものであっても、このような時期に休暇を取ることは容易にできるものではなく、同人が休暇を取得することは困難であったということができる。このような状況の下で、Tは身体の不調を覚えたが、休むよう勧める被控訴人を振り切って出勤し、くも膜下出血を起こして死亡するに至った。
 右のような経過に照らすと、Tは11月28日の時点で既に脳動脈瘤の異常膨張による頭痛あるいはくも膜下出血の前徴候症状と考えられる2度の頭痛を経験していた上、同月27日は午後9時過ぎまで残業してその翌朝右のような身体の不調を感じていたのであるから、その時点で直ちに安静を保ち医療機関の診療を受ける必要があったが、会社繁忙の折から休暇を取得することができず、出勤して勤務せざるを得なかったものである。そして、そのような状態の下で業務に就いた結果、Tの血管病変が自然経過を超えて急激に増悪しくも膜下出血の発症をもたらしたと認めるのが相当である。したがって、Tのくも膜下出血発症は右業務に内在する危険が現実化したものというべきである。そうすると、Tの死亡原因となったくも膜下出血と業務との間には相当因果関係があり、Tは業務上くも膜下出血を発症して死亡したものというべきである。したがって、被控訴人の保険給付請求は理由があり、これを棄却した本件処分は違法であり取消しを免れない。
適用法規・条文
労災保険法7条1項、16条、17条
収録文献(出典)
労働判例797号41頁
その他特記事項
本件は上告された。