判例データベース
N駅ホーム転落死事件
- 事件の分類
- セクシュアル・ハラスメント
- 事件名
- N駅ホーム転落死事件
- 事件番号
- 千葉地裁 − 昭和61年(わ)第68号
- 当事者
- 被告 個人1名
- 業種
- 分類不能の産業
- 判決・決定
- 判決
- 判決決定年月日
- 1987年08月17日
- 判決決定区分
- 無罪
- 事件の概要
- 女性ダンサーである被告人(昭和21年生)は、昭和61年1月14日午後11時頃、国鉄N駅ホーム上において、酔った男性A(47歳)と口論し、Aと50センチとは離れていない間隔で、かつ立ち止まって向かい合う状態になった。それまでに被告人はAに絡まれ続け、手出しを受けたほか、馬鹿女などと言われて来た上に、更に向き合ったAに胸から首筋あたりを手でつかまれるという状態に至り、もみ合いになる中で、Aを自らの力で我が身から離そうとし、右手に左手を添える形で、Aの右肩付近に手の平を拡げてAを突いた。すると、酔っていたAはホーム際の方に後ずさりし、ホーム下の電車軌道内に転落して、進入してきた上り電車の車体とホームとの間に挟まれて胸腹部圧迫による大動脈離断により死亡するに至った。これについて被告人は傷害致死罪に問われたが、Aを手で突いた行為は正当防衛であるとして、無罪を主張した。
- 主文
- 被告人は無罪
- 判決要旨
- 当時の状況の下において、被告人がAから胸から首筋あたりを手でつかまれる状態になるという更に強い絡みを受け、これから逃れるためAを両手で突く行為に出たことは、自制心を欠いたかの如き酒酔いの者にいわれもなくふらふらと近寄られ、更には手をかけられたときに生じる気味の悪さ、嫌らしさ、不安ないし恐怖にも通じる気持ちも併せ考えると、差し迫った危害に対するやむを得ない行為であったといわなければならず、またその態様も、手をかける状態のAを離させるため、曲げた両腕を前に伸ばし、その際右手に左手を添える形で手の平で突いたというもので、女性にとって相応の形態で、首肯し得る態様のものである。しかも1回突いたに留まっていること、被告人がAを突いた力はAをその場に突き倒すほどの強いものでなかったことが明らかであるばかりでなく、Aが当時酔っていて足下のふらつく状態にありながら、被告人に突かれたことによってバランスをある程度失いながらも、その付近に倒れることなく、ホームの線路際まで3メートル前後の間を後ずさりしている。被告人は身長167センチ、体重65.6キログラム、他方Aは身長165.5センチ、体重56キログラムであるところ、Aは高校で体育の教諭をしていた者であり、被告人は40歳になろうとする女性であって、必ずしも被告人が体力的に優っているとはいえない上、Aが酒に酔っている者によく見られるところの、自制心が働かず、その行動が制御されずに相手方に立ち向かうような状況にあったことが看取され、そのようなAから離れるためには被告人なりに力を入れて突く必要があったとみられること、これらの諸事情に照らせば、被告人のAを突いた所為が被告人自身からAを離すに必要にして相応な程度を越えていたとは到底いえない。
もっとも、被告人の言動として、目撃証人らは、「あんたなんか死んでしまえばいい」、「あんたなんか電車に轢かれて死んだらいい」という意味のことを言った旨述べるが、具体的内容は必ずしも確定できない。その上右のように被告人が言ったというのは、被告人がAに執拗に絡まれ、この若造がとか、馬鹿女とか言われた挙げ句のものであり、被告人がAを突く直前にも、被告人は馬鹿女という言葉にショックを受けたみたいだとの証言がある。更にAが被告人に対して生きる価値がないというようなことを言ったとの証言もあるほか、被告人が電車進入の直前であると意識してAを突いたとまではいえないこと、そのほか、被告人がAを突いた態様及びその力の程度、突いた地点から4番線ホーム線路際までの距離などを併せ考えると、右被告人の言葉をもって、被告人が一方的かつ積極的な害意をもってAを突いた証左とまではいうことができないのであり、右被告人の言葉は、人格を否定する趣旨の言葉を浴びせられ、更に突然後方から後頭部を押さえられるまでされたことに対する立腹の情から出たものと見られるところである。
これらの各証言によって認められる一連の経過等を総合的に検討すると、被告人は、3番線側ベンチ前の千葉寄り付近にいたところ、左斜め後ろあたりにいたAに背後から後頭部を突かれて前のめりになった際、それまでにAに執拗に絡まれ、小突かれたり、足蹴にされそうになったり、また馬鹿女とかの侮辱的言葉を言われたりして、それに対し、時には無視する態度をとり、時には言い返し或いはAの手を払うなどしてきた上、周りの者に助けを求めても、笑うなどして誰一人応じてくれる者もいなかった中で、これまでにも増して後頭部を突かれるという仕打ちを受けたことに対し、むかっとするとともに、このままでは何をされるかわからないとの思いから、Aを遠ざけようとして、近くにいたAを手で突いたところ、Aはよろけた後、被告人の方に戻る形となって被告人と向き合い、被告人の着ていたコートの襟のあたりを手でつかんで離そうとせず、Aにつかまれたままどのような危害を加えられるかも知れないと考えた被告人は、Aを我が身から離して目前の危害から逃れようとし、かつそれまで執拗に絡んで来たAに対する立腹の情も加わって、曲げた両腕を、右手に左手を添える形で、手のひらを拡げ、前に突き出してAの右肩あたりを突き、その勢いでAは被告人から離れて後ずさりし始めたものと認められる。そして右差し迫った状況に置かれた被告人にとって、執拗に絡んで来るAから自らの力で逃れようとしてAを突いたことにやむを得ざるものがあった上、その方法も相当なものであった。
この場合、電車に乗ろうとして階段からホームに降りてきた被告人が、思いもかけず公衆の面前で酔余のAに絡まれた上、侮辱的言辞まで受け、周囲の者に助けを求めても、笑うなどするのみで誰一人これに応じてくれず、当時被告人は食料品など2個の紙袋に入れ両手に提げていて思うように動ける状態にあったとも見られない。被告人はそれでもなお自らの困惑した事態を逃れようとするのであれば、その場から立ち去る動きに出て然るべきであったかのように言うのは、相手がかかる酔余者であることをも考え、いわば被告人に対してのみ然るべき対処を余儀なくさせるという片面的観点からの論であるといわざるを得ない。右の如き論は被告人に対し一方的にそのような屈辱を甘受せよと無理強いし、また嫌がらせを受けながらもその場を逃げ去る悔しさ、惨めさを耐え忍べよというに等しく、他方、駅のホームという公共の場にそぐわない行動をとる酔余者に対しては、その行動を放任する結果になることから、徒らにAの右動きを助長する傾きのあるのを否めないところであり、結局において被告人の一市民としての立場をないがしろにするものであって、到底与することができない。
また、被告人の所為によってAの死亡という重大な結果を招来したからには、その行為に相当性はなく、被告人の刑責が問われざるを得ないものであるかのように言うのは、被告人の所為が相応な態様なものであったのを当時の状況のもとにおいてもなお否定しようとすることに帰する。被告人はもとより死の結果の発生を認識した上でそれでもなお右の所為に及んだというものでは全くなく、他方、Aもホームで被告人のコートの襟あたりをつかむ所為に出るときは、これに対して被告人の方からこれを離すため現に被告人によってなされた態様、程度の反撃が返ってくるのを酔余とはいえ十分に予測し得る状況にあったと見られるのに、それでもなお被告人に対して右の所為に出たという事情も存するのであり、それでもなおAの死亡という事態の生じているが故に被告人の所為についてこれがやむを得ないもので、かつ相応な態様のものであったことを否定しようとするとき、それならば被告人としては、Aの行為に対し如何なる手立てを取ったら良かったのかということにつき、その対処の余地を見出し難い立場に置かれることになる。以上によれば、Aが死亡しているの故をもってしても、一連の経過の中で被告人の行為にやむを得ざるものであることを否定し去ったり、或いは被告人の行為が防衛の程度を超えていたとする余地は見出せない。
然からば、被告人がAを突いた所為は、刑法36条1項にいう急迫不正の侵害に対して自らの身の安全を守るためやむを得ずに出た所為と認められ、それ故に右所為は処罰されず、本件は罪とならないものである。 - 適用法規・条文
- 刑法36条1項、205条1項
- 収録文献(出典)
- 判例時報1256号3頁
- その他特記事項
顛末情報
事件番号 | 判決決定区分 | 判決年月日 |
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