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立川労基署長(N社)虚血性心疾患死事件【過労死・疾病】
- 事件の分類
- 過労死・疾病
- 事件名
- 立川労基署長(N社)虚血性心疾患死事件【過労死・疾病】
- 事件番号
- 東京地裁 - 平成16年(行ウ)第446号
- 当事者
- 原告 個人1名
被告 立川労働基準監督署長 - 業種
- 公務
- 判決・決定
- 判決
- 判決決定年月日
- 2006年07月10日
- 判決決定区分
- 認容(控訴)
- 事件の概要
- 本件会社は、パールの顔料、化粧品素材、人工オパールの製造を主たる業務とする会社であり、T(昭和20年生)は、昭和42年10月本件会社に入社し、一貫して製造部門の仕事に従事し、平成11年9月16日(本件当日)当時、技術担当製造一課長の地位にあった者であり、危険物保安監督者に任命され、消防関係の責任者を務めていた。
Tの通常業務は、20ないし25kg入りの原料箱から混合機等へ原料を投入したり、製品を10ないし20kg単位に梱包するなどであり、最大の作業量となるのは、製品を20kg入りの箱18個に詰めて梱包する作業であった。
本件会社は、消防法10条1項に基づき規制される指定数量以上の危険物を貯蔵し取り扱う施設を有する事業所であり、同法の立入検査の対象になっていたところ、平成6年以降2度、消防署から立入検査(査察)をされ、改善指導を受けていながら、本件当日時点で、消防署長に届け出ていた指定数量を超える量の危険物を倉庫に保管していた。
Tは、本件当日午前8時45分頃、消防署から同日中に査察を行う旨連絡を受け、査察予定時刻の午前11時までの間に、書類の整理や、指定数量を超えて大量に保管していた危険物等を倉庫から運び出して体裁を整えることとし、書類の整理を終えた午前10時頃から危険物の運び出し作業を開始し、約30分の間に、約38kgの一斗缶を両手に提げて、約24回にわたって各4mの距離を運び、これを3段に積み上げる作業を行った。
Tは、午前10時30分過ぎ頃、事務所に戻って間もなく、顔が青くなり、手足を震えさせ、身体を硬直させるなどの症状が現れた後、救急車で病院に搬送されて右冠状動脈完全閉塞の手術を受けたが、同日午後7時頃、急性心筋梗塞により死亡した。Tは、本件当日当時、軽症ないし中等症の高血圧であり、30年間にわたって喫煙しており、近親者に虚血性脳・心臓疾患で死亡した者がいた。
Tの妻である原告は、平成14年12月20日、Tの死亡は業務に起因するものであるとして、被告に対し遺族補償年金の支払請求をしたが、被告は平成15年6月16日付けでこれを支払わない旨の本件処分をした。原告はこれを不服として、審査請求をしたが棄却され、更に再審査請求をしたが、裁決がなされないことから、本件処分の取消しを求めて本訴を提起した。 - 主文
- 1 被告が平成15年6月16日原告に対してした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。 - 判決要旨
- 1 業務起因性の判断基準
労災保険法に基づく保険給付は、労働者の業務上の死亡等について行われるところ(同法7条1項1号)、労働者の死亡等を業務上のものと認めるためには、業務と死亡との間に相当因果関係が認められることが必要である。また、労災保険制度が、労働基準法上の危険責任の法理に基づく使用者の災害補償責任を担保する制度であることからすれば、上記の相当因果関係を認めるためには、当該死亡等の結果が、当該業務に内在する危険が現実化したものであると評価し得ることが必要である。
ところで、本件で問題となっている虚血性心臓疾患は、基礎となる病変が、日常生活上の種々の要因により、徐々に進行・増悪して発症に至るのが通常であるが、他方で、業務による過重負荷が加わると、急激な血圧変動や血管収縮等を引き起こし、発症の基礎となる血管病変等が自然の経過を超えて著しく増悪して発症する場合もあるとされているところである。そうだとすると、過重な業務によって、著しく血管病変等を増悪させるような急激な血圧変動や血管収縮が引き起こされた結果、基礎疾患の自然的経過を超えて虚血性心臓疾患を発症したと認められる場合に、当該心臓疾患の発症が、業務に内在する危険が現実化したものと評価し、業務起因性を認めるのが相当である。
2 本件における業務起因性の判断
虚血性心臓疾患の危険因子として挙げられているのは、年齢(加齢)、性別(男性であること)、家族歴、高脂血症、高血圧、喫煙、糖尿病、肥満、高尿酸血症等であり、そのうち高脂血症、高血圧、喫煙は三大危険因子とされていることが認められる。Tの平成9年1月以降の健康診断における血圧値の推移に照らすと、本件当日においてTは軽症ないし中等症の高血圧であったと認定するのが相当であるが、他方、虚血症心臓疾患の三大危険因子の一つとされている高脂血症ではなく、また糖尿病、肥満、高尿酸血症等の危険因子は持っていなかった。
被告は、Tが死亡したのは、Tの基礎疾患が自然的経過で増悪し、たまたま業務中に心筋梗塞を発症した結果であると主張する。確かに、Tは本件当日当時54歳の男性であり、軽症ないし中等症の高血圧であったこと、喫煙の習慣があったこと、近親者に虚血性脳・心臓疾患で死亡した者がいることが認められる。しかし、高血圧の患者は日本人全体で3千数百万人おり、その半数以上が未治療であるとされ、喫煙者は男女平均で30%を占めるといわれていること等を考えると、Tが虚血性心臓疾患の三大危険因子を含む複数の危険因子を有していたことをもって、本件当日当時、Tが既に虚血性心臓疾患をいつでも発症し得る状況にあったと認めることは困難というべきである。
ところで、「異常な出来事」に遭遇した場合や、日常業務に比較して特に過重な精神的・身体的負荷を生じさせたと客観的に認められる業務に従事した場合に、これらの過重な負荷が急激な血圧変動や血管収縮等を引き起こし、発症の基礎となる血管病変等がその自然経過を超えて著しく増悪し、虚血性心臓疾患を発症する場合があるとされていることが認められる。(1)Tは、これまでの例と異なり、査察の当日になって消防署から工場に対し査察が実施されることを知り、その開始時刻までの約2時間で査察を受け容れる体制を整えなければならなかったこと、(2)Tは工場における危険物保安監督者として責任を負う立場にあり、前回の査察の際に違反事項として指摘された点についての改善措置をとっていなかったことから、大いに動揺し強い衝撃を受けたこと、(3)Tの上司も、Tから改善措置がされていないと聞いて、T同様に動揺したことが認められる。そうすると、本件当日に突然査察が行われることを知ったことは、Tの立場にあるものであるならば誰もが強い動揺を受ける「異常な出来事」と評価することができ、大きな精神的負荷を与えるものであったと認めるのが相当である。
本件当日に抜き打ち的に消防署の査察が入ることによる精神的緊張の中で、約30分の間に、約38kgの一斗缶を両手に提げて、約24回にわたって各4mの距離を運び、これを3段に積み上げたという本件作業が、Tのような高血圧症という基礎疾患を有する者にとって、その血圧を著しく急激に上昇させ、粥腫の破綻やスパズムによる冠状動脈閉塞を生じさせ得るものであったと認めるのが相当である。
被告は、Tが日常業務においても重量物を運搬する作業を行っていたことを理由に、特に過重な業務に就労したとは認められないと主張する。しかし、査察の開始まで1時間を切ったという切迫した状況下で行われた本件作業を、日常業務と比較することが疑問であるし、Tの日常業務における力仕事と比較しても、それを大幅に上回る重負荷と認めることができ、被告の上記主張は理由がない。
以上みてきたとおり、本件作業は「異常な出来事」に直面した大きな精神的負荷の下に行われた、日常業務とは異なる重負荷の作業であり、それ自体著しく血管病変等を増悪させるような急激な血圧変動や血管収縮を引き起こし得る業務であったと認めることができる。すなわち、Tは、本件当日、直ちに心筋梗塞を発症するような状態にはなく、本件査察の連絡を受け、本件作業に従事したことにより既存の基礎疾患を急激に増悪させた結果、心臓疾患を発症したものというのが相当である。
Tは本件当日当時、軽症ないし中等症の高血圧症及び左右冠状動脈の動脈硬化という基礎疾患を有するとともに、喫煙習慣があったことが認められるものの、本件当日当時かかる基礎疾患等が自然的経過の中で心筋梗塞を発症するほどの進行状態にあったということは困難である。むしろ、Tは、本件当日の消防署の査察による精神的負荷の下において行われた本件作業が、著しく血管病変等を増悪させるような急激な血圧変動や血管収縮を引き起こし得る業務であったことにより、Tの冠状動脈内において粥腫の破綻あるいはスパズムによる冠状動脈閉塞を引き起こし、基礎疾患等の自然的経過を超えて心筋梗塞を発症させたとみるのが相当である。すなわち、Tは本件当日、直ちに心筋梗塞を発症するような状態にはなく、消防署から本件査察の連絡を受け、本件作業に従事しなければ相当期間にわたり生きることができたのに、本件作業等に従事したことにより既存の基礎疾患を急激に増悪させ、その結果心筋梗塞を発症したものと認めるのが相当である。よって、本件においては業務起因性があるというべきであり、Tの死亡が業務に起因するものではないことを前提にして行われた本件処分は違法である。 - 適用法規・条文
- 労災保険法7条1項、16条の2、17条
- 収録文献(出典)
- 労働判例922号42頁
- その他特記事項
- 本件は控訴された。
顛末情報
事件番号 | 判決決定区分 | 判決年月日 |
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