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足立労基署長(タクシー運転手)急性心筋梗塞死事件
- 事件の分類
- 過労死・疾病
- 事件名
- 足立労基署長(タクシー運転手)急性心筋梗塞死事件
- 事件番号
- 東京地裁 − 平成7年(行ウ)第255号
- 当事者
- 原告個人1名
被告足立労働基準監督署長 - 業種
- 公務
- 判決・決定
- 判決
- 判決決定年月日
- 1998年04月23日
- 判決決定区分
- 棄却(控訴)
- 事件の概要
- T(昭和16年生)は、昭和59年3月にH自動車(株)に入社し、同社足立営業所においてタクシー乗務員として勤務していた。Tの勤務形態は、出番→明番→出番→明番→公休の5日間を周期とし、乗務員の所定拘束時間は、午前6時30分出勤、7時出庫、翌日午前1時帰庫、1時30分終業の19時間(うち休憩3時間)とされていた。
「自動車運転者の労働時間等の改善のための基準」(平成元年労働省告示第7号)(改善基準)によれば、タクシー運転者であって、隔日勤務に就く者の拘束時間は、2暦日について21時間、1ヶ月について270時間を超えないものとされているところ、本件発症前3ヶ月間におけるTの1乗務当たりの平均拘束時間は約21時間24分であり、1ヶ月当たりの平均拘束時間は約228時間20分であった。Tは、本件発症前2ヶ月間に3回交通事故に遭ったが、いずれも相手方に追突されたものであり、車両の破損は軽微であったため、会社に連絡した後はそのまま営業運転を続け、会社から特に制裁を課されることもなかった。
Tは、平成3年12月21日(明番)、22日(公休)の2日間は勤務せず、翌23日は午前5時50分頃に出庫して午前6時50分頃までの間に2回乗客を乗せて運転したが、その間胸痛があり何度か嘔吐したため、病院に駆けつけて受診したところ、急性心筋梗塞と診断された。同病院はTをCCU(虚血性心疾患の集中治療施設)のある病院に搬送するため救急車に乗せたところ心停止となったため、近くの救急センターに搬送し、心肺蘇生術が施されたが、同日午前9時12分、急性心筋梗塞によるTの死亡が確認された。
Tの妻である原告は、Tの死亡は業務に起因するものであるとして、被告に対し、労災保険法に基づき、遺族補償及び葬祭料の支給を請求したが、被告はこれを不支給とする処分(本件処分)をした。原告は本件処分を不服として、審査請求、更には再審査請求をしたが、いずれも棄却の裁決を受けたため、本件処分の取消しを求めて本訴を提起した。 - 主文
- 1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。 - 判決要旨
- 1 「業務上」の意義について
労災保険法に基づく保険給付は、労働者の「業務上」の災害(負傷、疾病、障害又は死亡)について行われるものであり、労働者が「業務上」死亡したといえるためには、業務と死亡との間に相当因果関係のあることが必要である。そして、労災保険制度は、業務に内在又は随伴する危険が現実化した場合に、それによって労働者に発生した損失を補償するものであることに照らせば、業務と災害との間に相当因果関係が認められるかどうかは、経験則及び医学的知見に照らし、業務がその災害発生の危険を内在又は随伴しており、その危険が現実化したということができるか否かによって判断すべきものと解される。もっとも、心筋梗塞のような虚血性心疾患の発症は、被災者に血管病変等が存し、それが何らかの原因によって破綻して発症に至るのが通常であると考えられているから、業務が虚血性心疾患を発症する危険を内在又は随伴していると認められるためには、単に業務がその虚血性心疾患の発症の原因となったというだけでは足りず、業務による負荷が血管病変等をその自然的経過を超えて急激に著しく増悪させ得る態様のものであることが必要である。
2 Tの死亡と業務の関連性について
本件発症前3ヶ月間、Tは特段の支障もなく業務を遂行していたこと、その間の勤務の状況は、1乗務当たりの平均拘束時間が改善基準を若干超えてはいるものの、1ヶ月当たりの平均拘束時間は改善基準をかなり下回っており、乗務日と次の乗務日との間に相当な休息期間があるなど、肉体的、精神的に過重労働と認め得るようなものではなく、本件発症前1週間の業務内容も平常の運転業務の域を出るものではなかったこと、Tは本件発症前2ヶ月間に3回(うち2回は本件発症前10日間)交通事故に遭ったが、いずれも相手方の車に追突された軽微な物損事故であり、会社から制裁を受けたこともなく、事故後営業成績が落ち込んだこともなかったこと、本件発症当日は50時間近くの休息期間を取った後であり、その業務も2回乗客を乗せて運転しただけで特に負担となるようなものではなかったことが認められる。
他方、Tは、本件発症の約4年前から高血圧症の治療を行っていたが、11月25日に14日分の降圧剤を受領して以後降圧剤を受領していないことからみて、本件発症前10日余の間は定期に降圧剤を服用していなかったのではないかと推測される。そして、N医師は、Tの拡張期血圧120は重症の部類に属するものであり、Tの高血圧治療状況は適切であったとはいい難く、心筋梗塞発症の危険はある程度高かったと推定されるといい、またH医師はTの高血圧の治療状況が適切であったとはいえないというのであり、これら医師の意見に照らしても、Tがその高血圧症について適切に治療を受けていたとは到底いえない。一方、R医師は、Tの高血圧は治療により適切に管理されており、軽症に分類される状態であって、Tは長期にわたる長時間の運転業務により慢性的過労状態や生理的リズムが乱れた状態に陥っており、これが運転中の血圧上昇と相俟って動脈硬化をもたらしたと考えられ、本件発症前の10日前と2日前に遭遇した事故によるストレスはTの過労状態や自律神経・ホルモンの乱れを一層助長し、本件発症はこのような状態から回復しないうちに、事故再発の不安や営業収入を回復しなければという心理的に緊張した状態で早朝から勤務したことに起因していると主張している。しかしながら、R医師の意見中、Tは長期にわたり深夜に及ぶ長時間の運転業務により慢性的な過労状態や生理的リズムが乱れた状態に陥って、これが運転中の血圧上昇と相俟って動脈硬化をもたらしたとする点は、Tの業務内容が平均的なタクシー運転手の勤務状況と比較して過重とは認められない上、「医学上、高血圧治療中の50歳の男性がある朝突然に心筋梗塞を発症して3時間後に急死することは、業務中であったか否か、過度の業務によるストレスの有無にかかわらず、普通に起こり得ることである。Tは、喫煙、性及び年齢というリスクファクターを有していたから、業務によるストレスがなくても、心筋梗塞発症の危険性は低いものではなかった」とのN医師の意見及び「持続性の本態性高血圧症は、ストレスによっては発症しないし、発症当日は何ら予期せぬ出来事はなかったから、強い感情的興奮が原因で心筋梗塞を発症したとは考えられない。したがって、本件発症は、高血圧の自己管理が適切に行われなかったことと、早期に自然に生じる血圧上昇や動脈壁の緊張度の高まりが原因となったものと推定される」とのH医師の意見に照らして、直ちに採用し難い。
以上のとおり、本件発症前のTの業務が過重であったとは認められない上、Tの健康状態に加えて、Tが50歳の男性であること、毎日20本程度の喫煙習慣を有していたことをも併せ考慮すれば、Tの死亡原因となった心筋梗塞は、業務による負荷が同人の有していた血管病変等をその自然的経過を超えて急激に増悪させた結果発症したものと認めることはできない。 - 適用法規・条文
- 99:その他 労災保険法16条の2、17条
- 収録文献(出典)
- 労働判例738号13頁
- その他特記事項
- 本件は控訴された。
顛末情報
事件番号 | 判決決定区分 | 判決年月日 |
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