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福岡中央労基署長(不正経理)自殺事件(パワハラ)
- 事件の分類
- うつ病・自殺
- 事件名
- 福岡中央労基署長(不正経理)自殺事件(パワハラ)
- 事件番号
- 東京地裁 - 平成20年(行ウ)第675号
- 当事者
- 原告 個人1名
被告 国 - 業種
- 公務
- 判決・決定
- 判決
- 判決決定年月日
- 2010年06月09日
- 判決決定区分
- 棄却
- 事件の概要
- C(昭和20年生)はベトナムで出生し、昭和44年に原告と結婚して日本に帰化した男性であり、昭和49年9月に大学院博士課程を卒業した後、昭和50年7月に化学製品、農薬等の製造、輸出入、販売等を業とするA社に入社した。
Cは、入社後、主に農業用製品事業部に配属され、福岡事務所に転勤した後は、除草剤「ハーモニー」を中心とした九州・沖縄地区の販売促進活動に従事し、平成元年7月から東京本社勤務となり、ハーモニーの研究開発、普及、市場調査及び情報交換等を行う「ハーモニー普及会」の業務を担当することになり、同普及会の経費を扱っていた。
A社の内部監査部であるP社は、遅くとも平成10年4月頃までに、Cが普及会の会計に関して不正な支出をした旨の内部告発を受けたことから、A社はCに対し、同年5月21日から7月27日までの間に合計10回、旅費計算、普及会の接待等に関し事情聴取を行った。Cは、第1回事情聴取後の同月22日、遺書を原告宛に投函し、同月27日に首吊り自殺を試み、同年6月25日から自宅待機となった後、自宅で事情聴取に関する書類を見ていることが多くなり、同年7月上旬頃からは便秘や腹痛を訴えるようになり、胃痛、血尿などの身体的症状を訴えて通院するようになったところ、同年7月28日正午頃、千葉県柏市において、自動車内に排気ガスを引き込み、一酸化炭素中毒で死亡した。
Cの妻である原告は、労働基準監督署長(品川署長から福岡中央署長に回送)に対し、平成15年7月22日、Cの死亡はA社における業務上の事由に起因しているとして、労災保険法に基づく遺族補償年金の給付を請求したが、同署長は平成17年6月27日付けでこれを支給しない旨の処分(本件処分)をした。原告は本件処分を不服として、審査請求、更には再審査請求をしたが、いずれも棄却の裁決を受けたため、本件処分の取消しを求めて本訴を提起した。 - 主文
- 1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。 - 判決要旨
- 1 業務起因性に関する法的判断の枠組みについて
労働基準法及び労災保険法に基づく保険給付は、労働者の業務上の死亡について行われるところ、業務上死亡した場合とは、労働者が業務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、負傷又は疾病と業務との間には、条件関係のみならず、相当因果関係があることが必要であると解され、その負傷又は疾病が原因となって死亡した場合でなければならないと解される。そして、労働基準法及び労災保険法による労働者災害補償制度は、使用者が労働者を自己の支配下に置いて労務を提供させるという労働関係の特質を考慮し、業務に内在する各種の危険が現実化して労働者が死亡した場合には使用者に無過失の補償責任を負担させるのが相当であるという危険責任の法理に基づくものであるから、業務と死亡との相当因果関係の有無は、その死亡が当該業務に内在する危険が現実化したものと評価し得るか否かによって決せられるべきである。
「ストレス−脆弱性」理論及び危険責任の法理の趣旨に照らせば、業務の危険性の判断は、当該労働者と同種の平均的な労働者、すなわち、何らかの個体側の脆弱性を有しながらも、当該労働者と職種、職場における立場、経験等の点で同種の者であって、特段の勤務軽減まで必要とせずに通常業務を遂行することができる者を基準とするべきである。このような意味での平均的労働者にとって、当該労働者の置かれた具体的状況における心理的負荷が一般に精神障害を発症させ死亡に至らせる危険性を有しているといえ、特段の業務以外の心理的負荷及び個体側の要因のない場合には、業務と精神障害の発症及び死亡との間に相当因果関係が認められると解するのが相当である。また、判断指針・改正判断指針は、いずれも精神医学的・心理学的知見を踏まえて作成されており、かつ、労災保険制度の危険責任の法理にも適うものであり、その作成経緯や内容に照らして不合理なものであるともいえない。したがって、基本的には判断指針・改正判断指針を踏まえつつ、当該労働者に関する精神障害発症・死亡に至るまでの具体的事情を総合的に十分斟酌して、業務と精神障害の発症・死亡との間の相当因果関係を判断するのが相当である。
2 業務による心理的負荷の強度について
(1)業務上の出来事
Cの自殺に至る経緯及び医学的見解を踏まえれば、Cは平成10年5月27日頃に精神障害を発症したと認めるのが相当である。
直属上司であるDとの面談は、Cの依頼を受けて内部監査部が作成した事情聴取に関する質問書をCに交付したこと、質問書の内容は旅費精算に関するものであったこと、Cは質問書にある項目についてはほとんど記憶がないと答えたため、その他は当面の仕事が話題になったこと、面談時間は2時間半から3時間であったこと、場所はホテルの喫茶店でコーヒーを飲みながらの面談であったこと、これらの事実に照らせば、Dとの面談それ自体が、強度の心理的負荷をもたらすような態様のものとして、うつ病発症前の「出来事」として位置付けることは相当とはいえない。
旅費計算については、Cの個人口座で決済される会社貸与のクレジットカードによる航空券のキャンセルが多く、キャンセル後に購入し直した航空券の領収書も添付されていないから、A社が、Cがクレジットカードで購入した航空券をキャンセルしてディスカウントの航空券を買い直すなどの方法により差額を取得しているのではないかとの疑いや、少なくとも、実態とは異なる申告を行っていたのではないかとの疑いを抱いたことは合理的なものといえる。また、接待費用について、CがA社に費用請求する際に記載したTERと、カード利用実績や領収書の日付、金額等が一部齟齬している等の事実に照らせば、A社が、少なくとも実態とは異なる申告を行っていたのではないかとの疑いを抱いたことは合理的といえる。そして、普及会の会計に関しては、内部告発を契機としていること、ギフト名目の支出が多額にのぼり、かつギフトの送り先等が確認できる客観的な資料がないことから、A社としては、事実確認のための調査が必要であったといえる。
以上のとおり、少なくとも実態に即した申告、経理処理がなされていない合理的な疑いがあり、業務倫理規定違反などに該当して処分の対象ともなり得るため、A社として調査のためにCの事情聴取を開始する合理的な必要性があったことが優に認められる。
第1回事情聴取の所要時間は2時間程度であったこと、事情聴取に当たったのは、いずれも不正経理に関連性を有する部署の担当者3名であり、A社は第1回事情聴取後、Cの依頼に応じて内部監査部が作成した質問書を、Dを通してCに交付して記憶喚起を促しており、第2回以降の事情聴取においても、質問書の有無によっても特にCの回答は左右されておらず、第1回事情聴取時に資料の提出がなかったことが原因となってCが特に回答しにくい状況に置かれていたと認めることはできない。そして、第2回以降の事情聴取において、質問者らが、Cに弁解の機会を与えなかったり、一方的に不正と決めつけて自白を強要することなどを窺わせる証拠はないから、第1回事情聴取においても、概ね同様の発問状況であったと考えられ、第1回事情聴取の方法は相当なものであったと認めることができる。
(2)うつ病発症後の業務上の出来事
業務起因性の判断は、業務と死亡との因果関係を判断するのであるから、死亡に至るまでの事情を総合的に考慮することが合理的である。また、既にうつ病に発症した者に症状悪化が見られた場合に、殆どは病状そのものあるいは病状の結果であって心理的負荷が主な原因ではないとしても、その心理的負荷が健康時にあったとしても明らかに異常に強いものであれば、増悪の原因として検討されるべきであるとされており、うつ病発症後の業務上の出来事を考慮することは、必ずしも医学的見解と矛盾するものではないと解される。したがって、発症前のみならず、発症後に従事した業務も客観的に過重であったと認定されるなら、発症前後の継続する過重な業務と精神障害の発症・増悪・死亡との間に相当因果関係があると推認し得る場合も否定できないと解される。
うつ病発症後の業務上の出来事として考えられる第2回以降の事情聴取では、旅費精算、接待費用及び普及会のギフト関連費用について不正行為の疑いがあるとして調査が行われているが、これは判断指針によれば「会社で起きた事故(事件)について責任を問われた」に該当し、その平均的な心理的負荷の強度は「」であるとされている。また、うつ病発症後の出来事としては、第4回事情聴取後に取られた自宅待機を指摘できる余地があるとも解される。しかしながら、Cに対する自宅待機措置は、第4回事情聴取の後、Cが、福岡営業所の部下らに連絡をとり、内部監査部から質問を受けた内容について尋ねていた旨の情報を得たために講じられたものであり、事情聴取を円滑に行うための措置であることは明らかであり、ペナルティでないことはもちろん、降格、配置換え等の身分的な変更を伴うものではない。またCが部下らに連絡をとっていた旨の内部監査部からの情報提供を契機としていることから、連絡先窓口を直属の上司のみに限定することも、不正経理の調査を行うに当たっては、その調査の公平性・正確性を担保するために、企業として通常とり得る措置の範囲内であるといえる。したがって、A社がCを自宅待機としたことそれ自体をもって、Cに対する強度の心理的負荷をもたらす業務上の出来事であったと評価することは相当でない。
(3)心理的負荷の修正要素の有無
A社による事情聴取の中でなされたCの弁解によっても、少なくとも実態に即した申告がなされていないことが複数あることが判明し、更にCの弁解内容は必ずしも合理的な説明になっていないものが多い上、TERなどの証拠を示した追及や、裏付け調査を行った結果を告げての追及により二転三転し、これが終盤まで継続したものである。以上のように、Cに対する事情聴取の結果、Cの不正行為に対する合理的な疑念は解消されることはなく、その上、調査結果によっては、業務倫理規定違反等により懲戒処分の対象ともなり得ることから、Cに対して、記憶喚起、目的及び理由の確認、裏付け調査、これらを踏まえた更なる質問等を行う必要があったというべきである。これは、不正行為の裏付けのためだけでなく、むしろ、裏付け調査によってCの弁解が裏付けられたり、あるいはCの弁解が排斥できない場合には、不正行為と認めるに足りないとの判断をして、慎重な事実確認に基づく公正な処分を行う必要があったからである。かかる弁解状況及び調査項目が多数であったことに照らせば、事情聴取が第10回まで継続され、その時間も長い場合は4、5時間に及んだことも、やむを得ない必要性があったといわざるを得ない。
A社は、Cが自殺未遂をした可能性については認識しており、かつ、産業医Sから、次の事情聴取まで5ないし10日間の期間を置いて様子を見て、問題がなければ事情聴取を続行しても良いが、その際にはA社から精神的サポートがあることをCに伝えた上で行うようアドバイスを受けたにもかかわらず、精神的サポートの内容や役割分担などの体制を明確にしないまま事情聴取を再開したこと、事情聴取担当者の1人にはSのアドバイスすら伝わっていなかったこと、事情聴取に当たってSのアドバイスをCに伝えていなかったこと、事情聴取の途中でCから胃痛の訴えや血尿が出たという話があったにもかかわらず、事情聴取終了に至るまで1度もSに連絡をしなかったこと、第5回事情聴取においてCが体調不良を訴えたにもかかわらず、Sに相談することなく第6回事情聴取を翌日に行うことをその場で決めたことは、Sのアドバイスが活かされておらず、問題があったといわざるを得ない。もっとも、担当者は、Cの体調について質問したり、休憩を取ったり、第5回事情聴取はCから体調不良の訴えがあったためその日の事情聴取を中止するなどの一定の配慮をしていたことなどが認められる。以上のとおり、A社は、事情聴取を続行するに当たり、Sのアドバイスを活かしていなかったことについてその対応に問題があったこと、一方で、十分とはいえないまでも、Cの体調に一定の配慮はしていたと評価される。
以上の事情を総合すれば、Cに対する事情聴取の担当者数、回数、間隔、時間は相当であったといえ、資料の提供による記憶喚起、準備の機会もあり、発問状況についても、記憶換気や弁解の機会は十分に与えられ、Cに弁解の余地を一切与えずに一方的に決めつけたり、自白を強要したという状況は窺われず、Cの体調については、十分とはいえないまでも、一定の配慮はしていたと認めることができる。したがって、A社が事情聴取を続行するに当たり、Sのアドバイスを十分活かしていない点は問題があったといわざるを得ないが、事情聴取の態様についての各事情を総合的に考慮すれば、事情聴取全体の方法の相当性はなお認められるといえる。
普及会については、前年度の決算の際、Dらが問題ないとして決算が終了したという経緯があるところ、Cにとっては、上司の承諾を得て決算もできた普及会会計について再度調査されること、Dから普及会についても調査する旨第8回事情調査の際に告げられたこと、ハーモニーの売上増に寄与してきた自負があるのに不正を疑われたことで、精神的に動揺し、強い不満、不公平を感じたものと推認される。しかしながら、Cは過去に同様の事案につき業務倫理規定違反で懲戒処分歴があり、実態と異なる経理処理が処分対象となり得るという注意喚起も受けていたこと、A社の事情聴取自体は合理的な必要性のあるもので、かつ発問状況等の相当性も保たれていたことからすれば、普及会会計について調査を受けることの心理的負荷が、客観的にみて特に過重なものであるということはできない。
以上の事情を総合すれば、うつ病発症後の事情聴取の継続及び自宅待機による心理的負荷が、客観的にみて、通常の業務の範囲を超えて精神傷害を著しく増悪させる強度のものであったとは認めることができない。そして、判断指針によっても、うつ病発症後において、「ひどい嫌がらせ、いじめ」(強度「」)に当たる業務上の出来事があったとは認められず、また業務上の出来事の心理的負荷の強度を修正する事情も認められない。
3 業務以外の心理的負荷や固体側要因の検討
Cについて、業務以外の心理的負荷及び個体側の脆弱性として、精神障害の発症・増悪において考慮すべき程度の事実があったことは認めることができない。
4 結論
以上のとおり、Cが業務倫理規定違反等に該当し得る不正経理を行ったのではないかというA社の嫌疑は合理的なものであり、これを解明するために行われた事情聴取も相当性を欠くものではなく、Cが受けたうつ病発症前の業務による心理的負荷の程度及びうつ病発症後の業務による心理的負荷の程度は、通常の勤務を支障なく遂行できる平均的労働者にとって、当該労働者の置かれた具体的状況における心理的負荷が一般に精神障害を発症・増悪させる危険性を有しているとはいえない。したがって、特段の業務以外の心理的負荷及び個体側の要因は認められないが、Cのうつ病の発症及び死亡を、業務に内在する危険の現実化したものであると評価することはできず、業務と死亡との間に相当因果関係があるとは認められない。 - 適用法規・条文
- 労災保険法16条の2、17条
- 収録文献(出典)
- 労働経済判例速報2087号3頁
- その他特記事項
顛末情報
事件番号 | 判決決定区分 | 判決年月日 |
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